
アニメーションが物語を離れメタモルフォーゼ(変態)に身を委ねるとき、直線的な時間軸が消えていく。かつて無批判的に終結へと向かって一直線に流れていっていた作品は背骨を失い、時間の流れは環流へと変わる。「終わり」が巻いて「始まり」と合流し、「終わり」はそのまま「始まり」ともなる。始まりと終わりというひとつのルールが消えたあとにあらわれてくるのは、そのかわり原理である。たとえば陰と陽、誕生と破壊といったような、循環的な交代で円を描くような原理。
さて一方、相原信洋氏にとってのアニメーションは、日常生活という環流のなかに循環しつつ生産されるものとなっていった。とにかく毎日アニメーションを作っているらしい相原氏のその作品からは一個体としての作品の終わりなどという概念はとうの昔に消え、アニメーションは生活の一部となっているのであり、それゆえにそのときそのときの出たとこ勝負。
コンビニ的でつるつるした無印良品・ユニクロ的な無臭コーティングをされている現代の都会人からは遠く離れた場所で今も生まれ育ちつづけているように思われる相原氏のそのオリジナルな風貌を見た者は、ああ、本人が作品に漏れだしているのだと納得するに違いない。作家の一部が作品となっているそんな相原氏の謎を解き明かそうとすれば本人に質問をぶつけるのが一番だろうと思い俺は突撃を試みた。神戸での特集上映、ライブ・ペインティングを控えたその直前のことである。しかし俺の発した質問は相原氏に届くか届かないかのうちに破壊され「作っている最中が楽しいの。出来上がっちゃうと、冷めちゃうっていうかね。完成した作品はうんこだから」と相原氏のソレに変態した。唖然とするようなその変容ぶりに、もはや俺は何を問うたのか覚えていないが、その奔流に耐えるすべを持たない本質的なことではなかったのは間違いない。

ライブ・ペインティングの準備のために会場へと向かっていった相原氏を見送りつつ、俺が考えていたのは、なぜうんこなのか、ということだった。言うまでもないことだが、ここでいううんことは文字通りのうんこである。相原氏によって排出されたものという意味でのうんこである。それならば残念なことに、相原氏によるイメージ創出のその現場に立ち会うことを許されていないわれわれが堪能できるのは、相原氏の糞のみであるということになる。だが本当にそうなのか? 一観客として私は相原氏の作品の鑑賞体験から快感を感じる人間であるが、その快感は、決してスカトロジーに由来するものではないような気がする。
つまりは、『ラングーンラジオ』でのいろいろな臭いが漂ってくる氏のエロ話(相原氏を理解する上での参考文献。必読。)とはまた少し違って、性器等のモチーフが繰り返し登場しては破壊されていく相原氏の作品は、その見た目に反して少しも卑猥な印象を与えず、観るのを憚られるようなものでもなく、悪臭のひとつも漂ってこないのが驚きなのである。
その謎の答えを求めて相原氏の作品に再度潜り込んでみれば、やはり『カルマ』は圧巻で隙がない。丸のモチーフが目につく。水滴を覗いてみるとそこには大海が潜んでいた。小さなもののなかにこれほどに大きなものが含まれているとは驚いた。目を丸くした。ああ、そういえば目もまた丸いのだった。そしてこの丸い目は、どれだけのさまざまなスケールのものを目撃しうることか! 丸いもの、大きなものから小さなものまで。目も丸いが地球も丸い。そういえば、受精卵も丸い。卵はあの小さな身体に大きな未来を秘めている。水滴に大海があるのは、丸があらゆるスケールを含みうるからか。大海から人間がやってきたことを信じるならば、その水滴は受精卵であり、われわれがそこから生まれでてくる場所であるのか。海と胎内は相原氏の作品において丸のモチーフで結びつくのである。それゆえに相原氏の作品のエロス・モチーフはわれわれを日常から切り離し人工的な快楽へと沈ませるような不健康で特段変わった感情を持って接すべきものではなくて、むしろスケールの大きい懐かしさを思い起こさせるものである。ここでふと思い当たる、そうだ、相原氏の作品が卑猥ではないのは、氏が描くのが「当り前」の世界だからなのではないか。エロスだエロスだウヘヘへへと反応するのは正しくないような。相原氏の作品を思い出す時その記憶はいつもサイレント上映だ。なぜならばそれは人間の関係するしないに関わりなく目撃者がなくとも淡々と繰り返されるような種類のものだからだ。衆目を引くために特段音を立てる必要はないし、いちいちそんなことをしていたら疲れてしまう。だって常日頃起こる当り前のことだから。
だが何が当り前だというのか。「アイハラ」とでも名付けてしまいたくなるような、破壊と誕生を繰り返すメタモルフォーゼ。俺はそれが当り前だと言いたいのだ。最新理論物理学の一説によれば、今われわれが生活するこの宇宙とは49回の終焉と再生を繰り返したのちの50回目なのだそうだ(マジで)。日常的なスケールでは俄に信じがたいことだが、つまり我々は絶えざる破壊と誕生の最中にいるわけだ。物理学最新の成果と現代のシャーマンのアウトプットの出す結論が一致したとしても別に不思議なことはあるまい。大きな範囲でいえばエドガー・アラン・ポーは星は無数にあるはずなのになぜ夜空は暗いのかというオルバースのパラドクスの答えを天文学の趣味から導きだし、その推論は正しく140年後の天文学者によって驚かれた。小さな範囲でいえばレン・ライ(彼もまた相原氏同様自然児っぽい人だったらしい)だって『トゥサラバ』で当時知りうるはずもないウィルスの形状をその発見の30年前にアウトプットしていたではないか……冒頭の話をもう一度繰り返そう。物語が消えかたちの解体する抽象アニメーションにわれわれが目にするのは、この世界の原理なのだ……だから大きなものも小さなものも自らに呑み込む相原氏の素直な心を通じて浮かびあがってくるものが宇宙的創造の原理であったとしてもちっとも不思議ではないし、やはり、それがいちいちムラムラドキドキくるようなものだったら疲れてしまって大変だと思う。至極当り前のものなのだから。
宇宙的原理が相原氏の心のなかに飛来したとき、それは当然身体にも影響を与えるだろう……なにかを作り、そして壊したくてうずうずするだろう。そして相原氏が自らのフィールドとして選んだのはアニメーションという映像であった。そこで話は『映像(かげ)』という象徴的な作品に移行する。冒頭では実写によってなにかを呼び出しかねないような呪術的かつ官能的に動く手が映し出される。しかし後半ではその指は砕けちり例の「アイハラ」が始まる。相原氏の作品に頻出のモチーフのひとつが指であることは誰もが気がつくが、『映像(かげ)』のような作品を観てしまうと、こんなふうに言ってしまいたい誘惑に駆られてくる。アニメーションとは、手が壊しまた生み出す(マニピュレートする)映像(かげ)である、と。アニメーションは宇宙的原理ときわめて相性が良いことを再確認できて安心した。

……宇宙の果てからそんな空想が絶え間なく飛来してくるうちに、相原氏のライブ・ペインティングが始まった。スクリーンの上に白い紙が貼られ、お互いに似た小さないくつもの絵が描かれていく。およそ20個ほどか。それらを連続して眺めていくと、アニメーションが始まりそうだ。つまり20コマほどのアニメーション。そしてそのコマに描かれた小さないくつもの絵は何度も何度も更新されていく。動き、変容していく。そして驚くべきことに相原氏は丸を描きはじめた……小さなコマたちはみな、墨をつややかに光らせた丸になっていくのだ……『カルマ』が再び頭をよぎる……あの丸にも大海が含まれているのか……? しかしさらに驚いた。相原氏は、その丸の上に、20個の丸のうえに、ひとつずつ、墨を付けた自分の手をペタリ、ペタリと拓として残しはじめたのだ……! 今度は『映像(かげ)』が頭をよぎる。丸はすべてを生み出す大地としての地球であり、すべてを生み出す未分割の受精卵であった。相原氏は、そこから、自らの手を用いて、解体であり誕生でもあるアニメーションを開始させる人間であった。つまり、このライブ・ペインティングは相原氏による自分の作品についてのマニフェストなのだった。創造そのものを行う人間としての。すべてを生み出しうる丸から自らの手によって新たなフォルムを生み出す人間としての。イベント終了後すぐに東京行きの新幹線に飛び乗った相原氏に事の真相を訊ねる時間はなかったが、このマニフェストはこれまでも常に実現されてきたものなのだから、確かめる必要は特にないだろう。これからも実現されていくだろうし。

『リンゴと少女』という作品を思い出す。リンゴの切断面のアニメーションが民家内に映写されると、襖の縦線がちょうどその真ん中に入り女陰に変態するがそのときについ浮かんでしまう笑みはシニカルなものではなくもう少しスケールの大きなほっこりとした邪念のない笑顔である。『とんぼ』には実写の女性のヌードが登場するがなぜかカメラは執拗に下半身のみを映し続ける。おそらくそれは、相原氏にとって生み出すという行為自体が大切だから。乳で育てるところはもういいんだ、おそらく。
女陰へと向かう相原氏の作品はそれゆえ創造に向けて男性がなしうる一般的な準備であると言えよう。すなわち精子である。最近タマタマ読んだパウル・クレー氏の書く詩には、彼が自分の生み出す線画が精液的なものであると語った旨が記してあった。そのアツくてドロリとしたアメーバ状のソレは新たなるフォルムを規定するための準備なのである。つまり生まれる前。受精するその前。だから相原氏の作品はうんこではなく精液なのではないか。誕生(女性器)を夢見て執拗に手を動かし自らの内的なものを奔出させる自慰は、本人にとってはおそらくプロセス自体がもつ楽しさが一番であるにちがいない。だから相原氏は当り前のように毎日至極。しかし、本人にとってはもはやどうでもいい、紙にびゃっと放たれるその精液だって、のたうちまわって観客ひとりひとりの目に飛び込んで受胎する。だから目を丸くして眺めていた一観客である俺の手から、ほら、この文章が生まれた。
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