村浩二『マイブリッジの糸』
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山村浩二監督の最新作『マイブリッジの糸』が遂に劇場公開される。NFB短篇アニメーション作家にとっての「聖地」NFBにおいて、日本人監督として初めての国際共同制作によって製作されたこの作品は、その事実自体も充分に歴史的だが、何より、作品自体の質に驚かされる。「時間」をテーマに、多数の要素が、有機的に、緩やかに、何層にも絡みあうその構造は、エドワード・マイブリッジという実在の人物の伝記的要素も含んでいることもあり、初見ですべてを把握するのは難しく、ただただ、豊かに変貌していくイメージと音に圧倒される。山村浩二が影響を受けた作品として常々挙げているプリート・パルン『草上の朝食』のように、観るたびに新たな発見がある作品なのだ。このインタビューでは、そんな『マイブリッジの糸』のコアにあるものを探ろうと試みた。(土居伸彰)
山村浩二 そうですね。たぶんこれは「わかりにくい」と言われるだろうなというのは分かっていたので。一般的な評価が難しい作品になるだろうなという予感を持っていたので、その発言をしたと思うのですけれども。 ――でははじめから『マイブリッジの糸』が念頭に置かれていたと? 山村 そうです。 ――山村さんはいつも、ハードコアな世界観をいろいろなやり方でコーティングしてきたと思います。ある程度の商業性を担保するというか。今回の場合はどうでしたか? 山村 今回は少し外していると思います。『頭山』を作るときに意識したのは、一般受けするためにはナラティブが必要だろうなということです。やりたいことだけをやるんだったら、ラストの無限ループだけでもよかったんだろうけど、それだと何をやっているんだか伝わらないだろうということは分かっていたので、語りの部分、一般的に言うとストーリー性の部分は、『頭山』『年をとった鰐』『カフカ 田舎医者』の三作については考えました。今回も若干そのことは配慮してるんですけど、以前のものよりは混乱するだろうなとは思いました。 ――そのようなやり方を採用したのは、NFB製作だからということはありましたか? 山村 ちょっとあります。たぶん、日本の映画会社で、松竹さんとかだと、劇場公開する作品を実験的なアニメーションにするのは難しいだろうなと。NFBだったら、その点どんなものでも大丈夫だろうなと。 ――NFBといえば、冒頭ではマクラレンの『カノン』にオマージュが捧げられていますね。実際、カノンというテーマで共通もするわけですが。今回は『カノン』もそうですが、ジョナス・オデルの『リボルバー』は念頭にはありましたか。 山村 『リボルバー』については、似せたくないんだけどどうしても似ているところがテーマ的にありました。あの作品も、もともとマイブリッジの写真からイメージしているというところもあって。時計とか蟹とかが出てくるので。 ――避けようとしたんですね。 山村 ある意味避けようとしたというか。自分のやりたいことと違うんだけれども、マイブリッジというモチーフと時間というテーマが重なっているので。時計とか砂時計とか。『マイブリッジ』は蟹のカノンを使っていますが、そういえば『リボルバー』にも蟹が使われているなと後で気づいて。真似したわけではないですよ(笑)。
山村 時間のことについては作りながらいろいろ考えたんですけど、哲学的に、もしくは現代科学的に考えると、時間というのは非存在であって、計測するために――天体の運行とかそういうものを――人間がたまたま時間を作りだしただけで、相対性理論では、時間も空間も切り離せないですけど、時間も空間も人間の認知のなかで存在しているだけかもしれません。『マイブリッジの糸』は「瞬間」がテーマなんですけど、僕たちが認知できるのは「今」という時間しかなくて、この「今」という時間の幅を考えると、この「瞬間」のなかに、今自分が知覚できる宇宙内の全時間というものが入っているのではないかと。だから、「今」を知覚することは、「永遠」を知覚すること。端的に言うと、そういうことになります。だから「今」という瞬間に、何百億年という歴史の時間が入っている。 ――鳥肌が立つくらいに素晴らしい答えです! 先ほどの話に続けると、個人的には、『マイブリッジ』における時間の捉え方というのは、マイブリッジから現代東京の母親に渡される、あのアナログ時計の時間だなと思いました。過ぎていくけれども、また同じところに戻ってくる。近年の山村さんの、『頭山』や『年をとった鰐』、『カフカ 田舎医者』といった作品では、それぞれの原作と山村さんとが共鳴しあっていたがゆえに、原作が選ばれていました。『マイブリッジの糸』には原作がありませんが、バッハの「蟹のカノン」やマイブリッジの写真というのが、ある意味では原作であるとも言える気がします。そういったところで表現されたものが、『マイブリッジ』として回帰してくる。こんなふうに循環してまた戻ってくるような時の流れは、まさにアナログ時計なんじゃないかと。 山村 デジタルという切り離された時間ではなくて、あくまで、すべてがつながっているような時間ということですね。『マイブリッジの糸』では、母と子のエピソードの方に、ひとつの希望を、自分の思いをこめたところがあります。 ――母と子のエピソードというのは山村さんにとっては希望なんですね。 山村 ある意味では希望ですね。でも、やはり哀しみもあるわけですよ。現実的には、時間は不可逆であるということ、戻ることはできないということ、それは僕らにとってはある種の哀しみというか切なさを覚えてしまうのだけれども、そこに哀しみだけを見ても仕方ないと思うので、やはり希望は見たいなと。
山村 半々だと思いますね。ただ、やはり、マイブリッジ以降、映像が発明され、そこで時間に対する新しい考え方を勝ち得たと思っているので、その貢献はあると思うんですよね。これまでとは違った時間のコントロールができるようになった。芸術的というか技術的な側面についていえば、映像芸術の可能性というのを拓いたというところで、マイブリッジの存在は評価されるものだと思っています。 ――マイブリッジを描くことを通じて、「芸術家」と言われる人たちに対するアンビバレントな態度を感じました。彼らが残したものを通じて、私たちの世界の見方は変わる。しかし同時に、彼ら自身は、それぞれ勝手に、この一瞬が世界のすべてだとそれぞれに主張した人たちでもある。そんな存在に対するシニカルな態度も同時に感じられたのですが。 山村 あるかもしれないですね。ある種の、芸術家の傲慢というか。永遠に留めるということに対する欲望。それは俯瞰的に見ると、空しいというか、不可能というか。でも、マイブリッジは芸術家然としていなかったので、そこも僕は好きですね。 ――そういう視点があるということは、山村さんご本人も、自分自身の創造に対してそう思っているのですよね。 山村 それは半分、諦めていますよね。これまでいろいろと作ってきたり考えてきたりしたなかで。でも、やるしかない(笑)。 2 > |
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