美的一貫性 「ある現象が芸術作品のなかで真なるものとして創造されるのは、作品の内的なつながりが生命体の構造全体を再構築するよう試みられたときである。」(アンドレイ・タルコフスキー) 私が強く信じていることがある――美学の鍵は一貫性にある。3DCGアニメーションにおいては本質的に、世界のモデルを人工的に構築することになるが、私はこう主張したい――その作品世界が信じうるものとなるか否か、それは、どれだけの一貫性があるかということだけにかかっている。あらゆる要素が、それらを支配する一連の法則のうちに結びつけられているかどうか。この一貫性は、セリフ、デザイン、音、音楽、運動……作品のあらゆる領域へと広がっていく。それらの要素が一体となることで、「私たちが見ているものは本当なのだ」ということを確信させるフィードバック的なループが生み出されるのだ。人間の目はそういった美的調和を欲している。 興味深いのは、アニメーションにおいて、リアリティの感覚は、自分が望むいかなるものにもしうるということである。アニメーション世界を統べる法則は、それが一貫したものである限りにおいて、完全に恣意的かつ人工的でありうる。(嘘というものが充分に繰り返されると本当になってしまうように。)逆に、その世界のなかに見当違いのものが存在し、それが法則を壊したり超越してしまったりすれば、その世界は信じうるものでなくなってしまう(原注1:それは物語作家が間違った言葉を選んでしまったときに似ている。流れのなかにほつれを見いだすと、われわれの注意は物語からその誤りの部分へと向いてしまう。)まさにこういった理由があるからこそ、アニメーションは非常にシンプルでベーシックなスタイルであったとしても、一流の俳優が素晴らしいセットのなかで演じる実写映画同様に観客を引き込みうるのである。技術的に優れていないアニメーションであっても、それが一貫して優れていないのであれば、結局は一貫したものとなり、それゆえに信じうるものとなる可能性をもつことになる。こういった考え方は、白黒の実写映画がカラー同様に機能しうることの説明にもなるだろう。 美的調和は法則に由来する。ある人は技術的な制約によってそれを課すだろうし、スタイルや能力、予算、恣意性によって課す人もいるだろう。一貫性は「魅力的な」かたちを生み出したり、ある種の色彩を組み合わせるということによって獲得できるのではない。あくまで法則を一貫させることが要求されるのだ。[現実の]三次元空間においては、ある種の法則は普遍的に一貫しているが(二つの物体は交差しあうことができないことなど)、一方で、可変の法則もある。(規模の度合いを変化させることのできるものなど。)だからこそ、この法則は正しい、しかしあの法則は間違っている、などと主張するのは不毛である。そういった主張は最終的に間違いが証明されると私は考える。ディズニー・スタジオは何冊も本を出し、自分たちの方法論が「信じうるもの」を生み出す唯一のものであると主張した。しかし、その方法論は「サウス・パーク」のようなものには通用しない。だからといって「サウス・パーク」は人々を夢中にさせられないかといったら、それを否定する人間は少ないだろう。それゆえに私は、「信じうる」力を理解する唯一の道は、「一貫性」という考えなしではありえないと考える。 ある映画世界に内在する法則や制約を本当に知りうるのはその作品の作家のみである。あらゆる感情、音響、雰囲気、キャラクター、色彩、形態、そういったものは、作家にとっては明らかでなければならない。自分が生み出しつつある世界を貫く美的法則を定めるのは常に賢いやり方だ。自分の作り出す世界をきちんと内面化し、その作品の色彩や音響、感覚を自らに染みこませている作家は、自分のかつての選択について考え直すことはないからだ。あらゆる細かな要素が明確になり、それが収まるべき場所もきちんと見いだすことができる。 『プリーズ・セイ・サムシング』は、その美学においてかなり特殊な法則を採用している。節約の原則を中心としているのである。3DCGアニメーションに付随する大きな問題のひとつに、やり方を身につけ、世界を構築し、それをレンダリングするまでに、かなりの時間が必要になるというものがある。このことが原因となる障害は数多く存在するが、そのうちで最大のものは、3DCGアニメーションを美的に用いることを妨げるということである。3DCGアニメーションに付随するこういったプロセスは、一人だけで作業をこなして作品を仕上げるには障害となる。ほんの少しの変更でさえ数時間を必要とするし、このプロセス自体が厳密であるがゆえにいかなる変更も許されないこともある。 それゆえに私は、この制作過程のパイプラインをできるだけ最小限に抑えることを目指した。プレビュー用のレンダリング――スクリーン上でどのように見えるかを確認するためのスナップショット的な機能を持つもの――を用いることで、イメージを瞬間的に生み出せるようにした。 私が用いた二つ目の大きな決定は、なるべくシンプルな幾何学(もしくはモデル)を用いることである。そうすることで、制作、変更、アニメートの作業をかなり速く行えるようにした。3DCGアニメーションにおいて、物体やキャラクタ―を滑らかにするのは作業的にかなり簡単だ。文字通り、クリックひとつで行いうる。しかし、私はそれを用いなかった。それだけでなく、映像自体に美しさを簡単に付与することができるようなフィルターは使わないことを決めた。そういったものを使うのは、ベースとなる材料が良くないということを隠してしまうからだ。フィルターというのは女性にとっての化粧のようなもので、化粧をすれば女性は確かに美しくなるが、でも本当に興味があるのは、その人が化粧なしでどう見えるかということなのである。 幾何学のシンプルさ:このシーンは2100のポリゴンで出来ている。 キャラクタ―の登場する3DCGアニメーションの平均に比べると1/100以下。 ©David OReilly Animation 2009[訳注:画像はこのあとすべてPlease Say Something(2009)から。クリックすると大きくなります。] 第三の決定は、平面的なシェーディングを施すということだ。作品全体を通じて、照明やリアルなシェーディングは用いていない。この決断は節約の原理のみに基づいているのではない。なぜならば、単純なシェーディングであれば用いることができたからだ。しかし、この作品のドラマは照明よりも言葉による対話によって語られるべきだったので、単純に必要なかったのである。 他にもいくつもの小さな決定が行われている。プレビュー用のレンダリングを用いることで得られた最大の美的な結果のひとつは、映像にエイリアシング[デジタル信号化の処理や再生の過程において映像に歪みが生まれてしまうこと]が起きてジャギるようになったということだ。どのピクセルも鋭い色彩を帯び、その色彩がシーンを構成するためにそのまま用いられた。こういった効果が生み出す映像は美しい。しかし、ほとんどのソフトウェアやフィルターは、アンチエイリアスによってイメージを滑らかにする方向性へと向けられている。これからいくつかの例を挙げつつ、このことがどのような障害を作り出したか、映画の美的一貫性を保つために、私がそれらにどのように対処したかを説明したい。 左:エイリアシングが起きたイメージ、右:アンチエイリアスしたイメージ ©David OReilly Animation 2009 まず最初に、私は、あらゆるエフェクトのうちで最も頻繁に使われるブラー・エフェクトを禁止するという制約を自分に課した。ブラーを使うことが生み出す問題は、ブラーがエイリアシングの美学を壊し、作品の一貫性に影響を与えてしまうということだ。この制約の実行は比較的簡単だったが、しかしワンシーンだけ例外があった。私はこの作品で、ミハエル・ハネケの『ファニーゲーム』を引用している。ネズミがリモコンを使って作品自体を巻き戻してしまうシーンだ。『ファニーゲーム』では、その巻き戻しをする人物が頻繁にフォーカスされ、彼はカメラに向かって微笑む。このシーンはかなり印象的なので、私はネズミに同じことをさせることによって、これが巻き戻しプロットは引用であって盗用ではないことを理解してもらえるようにした。 そのときに問題となったのは、フォーカル・ブラーを使う必要が出てくるということだった。しかし、これはブラーを使わないという私の原則に反してしまう。代替案として考えたのは、複数のレイヤーを重ねて多層にし、[レイヤーを交差させることで]あたかもブラーのような機能を果たさせるということだった。こうすれば、映像はエイリアシングが起きたままになる。 エイリアジングが起きたピクセルを用いてフォーカル・ブラーのようにした例 ©David OReilly Animation 2009 リアルなフォーカル・ブラーはそれ自体としては美しいが、この作品の美的法則とは一貫しない。 ©David OReilly Animation 2009 自分に課したもう一つのルールは、フェードを使わないというものだった。(原注2:作品が終わる際に、画面を黒くするためにフェードを使っているが、これは法則の例外とした。)フェードとは本質的にはピクセルの不透明度を変更することである。しかし一方で、エイリアシングの美学は、あらゆるピクセルをソリッドかつピュアにすることを要求する。フェードを使いたいシーンはいくつかあったのだが、自分の課した法則を破りたくなかったので、その結果として、ピクセルをひとつひとつ消していくことによって、あたかも不透明度が変化しているように見えるやり方を編み出した。以下がその実例だ。 不透明度を変化させないままにフェードさせる ©David OReilly Animation 2009 最後の例として挙げたいのは、すべてを2コマ撮りでアニメートするというものだ。私たちは極端にスムーズな3DCGアニメーションに慣れてしまっている。それらは1コマ撮りで作られている。このことは、3DCGアニメーションにおいては、はじめ、技術的な探求の問題であった。というのも、3DCGにおいてはすべての中割りのコマは自動的に作られていくからだ。しかし、それまでの伝統的な手描きアニメーションはすべてのコマをそれぞれ別々に描かなければならなかった。目は2コマ撮りであっても充分に運動を受け入れるのだが、それはシーンが静的だったりカメラがゆっくりと動くシーンの場合だけだ。もしカメラが素早く動くとするならば、2コマ撮りだとアニメーションはグラグラと揺れ、おかしなものに見えてしまう。作品の最後、カメラを動かしたいショットがあった。それゆえに、私はその間だけ、法則を破って1コマ撮りをしなければならなかった。 こういった例は、3DCGアニメーションの作品世界を一貫したものとしようとする際に私が出くわした障壁のうちのいくつかにすぎない。新しいプロジェクトに取りかかるたび、私は新たな障壁に出くわし、それらの障壁は、これまでとは違うように考えることを私に強要し、ソフトウェアを本来の目的とは違うやり方で用いるよう仕向けることとなる。結果として生まれるものは常に美しいとは限らないが、それでも一貫はするだろうし、リアルには見えないかもしれないが、リアルに感じることはできるものとなる。 >3
幾何学のシンプルさ:このシーンは2100のポリゴンで出来ている。 キャラクタ―の登場する3DCGアニメーションの平均に比べると1/100以下。 ©David OReilly Animation 2009[訳注:画像はこのあとすべてPlease Say Something(2009)から。クリックすると大きくなります。]
左:エイリアシングが起きたイメージ、右:アンチエイリアスしたイメージ ©David OReilly Animation 2009
エイリアジングが起きたピクセルを用いてフォーカル・ブラーのようにした例 ©David OReilly Animation 2009
リアルなフォーカル・ブラーはそれ自体としては美しいが、この作品の美的法則とは一貫しない。 ©David OReilly Animation 2009
不透明度を変化させないままにフェードさせる ©David OReilly Animation 2009