イメージフォーラム・フェスティバル2010にてドン・ハーツフェルトが日本で初めて本格的に紹介されることを祝して、期間限定でハーツフェルトの近作についての評論を掲載します。(土居伸彰)
僕らの存在は巨大化したり縮んだりする。あるときには自分と世界が等価であると思ってしまうほどに肥大化するし、またあるときにはなんてちっぽけなのだとも思う。幸運なことに僕らの大多数は日々の暮らしを戦争や貧困や大病などに悩まされることなく過ごす。しかし、そういった状況にある人からすれば極度に幸福な暮らしをしている人間であっても、日々、普通に暮らしているだけで、特に何の理由もなく不安感を抱えてしまうし、アイデンティティーは不安定になる。人は大きいし小さい。これは矛盾ではなく両方ともが正しい。見方によるのだ。
ハーツフェルトの作品では常に、ちっぽけな存在(多くは人間だ)が巨大な何ものかに不条理なほどに翻弄される。彼のフィルモグラフィーを見渡せば『人生の意味』The Meaning of Lifeを境に何かが起こったことを容易にみてとれる。しかし、おそらくそれは『ビリーの風船』Billy's Balloonから始まっている。子どもたちが風船に虐待されていくだけのこの恐るべき作品で、僕はクスリとも笑えない。だからといって、くだらないと唾棄することもできない。限りなく的確な世界認識の凝縮図をみてしまった気がして、背筋に冷たいものが走る。そこから先の作品では同じテーマが繰り返される。『リジェクテッド』Rejectedではドン自身が精神的に追いつめられていき(もちろん作品の中だけの話だ)、最終的には愛着あるキャラクターたちはフレーム外からの力によって呑み込まれて無に帰す。『人生の意味』では宇宙スケールの巨大な時間と対比されて、無同然の存在である個が描かれる。彼は繰り返し、生きるということがあまりに圧倒的であるということを描いている。 「なにもかも大丈夫」シリーズの二作は、人生自体が時に見せるひやっとするような冷酷な感覚を持っている。この17分と22分の作品は、なんたるスケールを持っていることか。ハーツフェルトの愛するキューブリックの『2001年宇宙の旅』と比肩しうるような――この作品は150分ほどの長さだ――巨大なものを描いているような気がしてしまう。人の外に広がる外的な宇宙と、人の内面に広がる内的な宇宙の両方だ。 そんな離れ業を可能にするのは、彼のシンプルかつ余白の多い描画スタイルだろう。自らを「偶然アニメートすることになった映画作家」と形容するハーツフェルトは、アニメーション界においては異様なほどにドローイングに対して割り切った態度を取る。彼は自分の絵それ自体にそれほど価値を持たせず、「機能的」なものとして考えているような感覚がある。彼のシンプルな絵は、観客が自らをそのキャラクターに投影するための媒介として機能すればそれで充分なのであり、美的な価値を担わされない。彼は一般的なアニメーション作家とは、アニメーションに対して見いだしているものが違うのだ。 だが、本当はハーツフェルトの方こそが、アニメーションの本質を突いているのではないか。アニメーションにおいて、僕らは実際には存在しない何ものかを見ている。これは僕の敬愛するノルシュテインの受け売りだが、アニメーションにおいては、一本の線が宇宙全体として認識されることも理論的には可能なのだ。僕らは、そこに実際に存在するものを通じて、本当は存在しないものを観る。僕らはアニメーションという白昼夢を見るのだ。 エブリマンとしてのキャラクターに、黒や余白が多い画面づくり。ハーツフェルト作品のそんなヴィジュアルは、観客側に過剰な補完作用を喚起する。作品自体が触媒となって、僕らは自分自身の生についての白昼夢さえみはじめてしまう。僕らは現実を生き日常生活を過ごしていて完全に覚醒しているあいだであっても、白昼夢を見る余地を残している。僕らの思念は油断すれば世界それ自体から離れて、首を伸ばして過去や宇宙の果てについてぼんやりと空想する。僕らは覚醒しながら夢を見る。ハーツフェルトのアニメーションをみながら、僕ら自身の生についてぼんやりと考えはじめる。ハーツフェルト作品を見ながらみはじめる白昼夢は、僕ら自身の生を多分に反映した夢だ。いやむしろ、限られた世界(つまり夢のように不確かな世界)にしか生きられない僕ら自身の生そのものの夢だ。 >2 |
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土居伸彰「デイドリーミング――ドン・ハーツフェルト『なにもかも大丈夫』『あなたは私の誇りよ』」(1)
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