フカ 田舎医者』
Animations座談会5 < 1 2 >

 山村浩二インタビューに続く、『カフカ 田舎医者』公開記念企画第二段は、Animationsメンバーたちが山村浩二に素朴な疑問をぶつける座談会。山村浩二はどのようなことを考えながらアニメーションを作っているのか、その一端を垣間見ることのできる面白い内容となった。(土居伸彰)

ぞることの難しさ


『カフカ 田舎医者』(2007) ⓒ Yamamura Animation / SHOCHIKU

土居
ここからはAnimationsのメンバーも交えて『カフカ 田舎医者』について話してみたいと思います。まず、和田さんはどうですか。

和田
今の僕のなかでの課題が構図なんで、そういう目線でみたときに、その強度とか深みがすごくありますね。

土居
作り手ではない人間に教えていただきたいんですけど、構図ってどう決めるんですか。

山村
どう決めるんだろうね……

土居
「しっくりくるか」とか。

山村
まず、物語を語る上での具体的な制約があって。そういう意味では、すごく計算しなきゃいけなかったり作為的な部分があるわけですよ。「このシーンでは建物全体が見えていないと説明がつかない」とか、「人物の足元まで見えてないと」とか、「クローズアップで表情が前面に見えてないといけない」とか。「これは俯瞰気味で撮らないといけない」とか、カメラアングルも決めなければいけない。カメラがどこにないといけないという距離感も。もちろん擬似的なものなんだけど、そういうことを考えることで結局構図ができてくる。さらにそのなかで、自分なりの美意識を働かせないといけない。画面の緊張感を保つ為にはどんな要素が必要なのかを考えるなかで、その位置だとか大きさだとか、色とかたちのバランスとかが決まってくる。最低限の対比として考えるかな。

土居
原作通りに作品をつくるからといって、原作と作品のイメージがバッチリとあうとは限らないわけですよね。原作と『カフカ 田舎医者』のあいだに違和感がないように僕は感じました。でも、そうするのは簡単ではないですよね。

山村
それは気付いてくれないことが多いんだよね。違うメディアでやるんだから、原作通りにできるわけはなく、当然ズレがある。そのズレをなくすために、原作からどの感覚を引っぱってきてどこをきちんと見せるかというのをすごく選んだ上で、プラスαの情報をのせているからこそ、原作どおりに思えるだけで。……どれだけ工夫しているのかというのは、あまりピンとこないのかもしれないけど、ギャップをなくすのはとても難しいんだよね。僕も今回どこまでなくせているかは、自分でも客観的にはよくわからない。特にこういう有名な原作だから。

土居
ノルシュテインは『外套』について、原作から受ける感覚に対してぴったりくる表現がなかなか見つからないことに苦労しているという話をしていました。

山村
文字の方が当然想像力の余地が大きいから。アニメーションはその点、実写よりも若干有利だと思っていて、それは想像力の余白を与えることができるから。実際の役者やセットを使うと、やはりイメージは限定されてしまうけれど、絵でやることによって実写よりも余白が大きくなる。どれだけ余白をつくるかというのを工夫してやっている。

土居
自分が原作を読んで浮かべたイメージを、ただ単に押し付けるというわけではないということですね。

山村
それは違うんだよね。もちろん、自分自身のアイディアもいいのが浮かばないとだめなんだけど、すごく練る。悩まずに出てきたイメージをやっているというわけではない。医者のイメージはかなり早い段階でつくれたんだけど、中庭と少年の部屋は苦労した。演出的なことなんだけど、いわゆる見取り図――どの角度でものがどう接していて、どこにあるのかを設定する――がものすごく時間がかかった。原作を崩さない映像を見せる為には、その設定がしっかりしていないと、おかしなことになってくる。辻褄が合わなくなる。

土居
立体の模型をつくったりなどは……

山村
頭の中で組み直して。ものすごい悩んだ。でも、それがしっかりとできれば、さっき言った構図の話にも戻るんだけど、構図もモノになるんだよね。

土居
どうですか和田さん。いい話がきけましたね。

和田
でも僕のは背景がないからなあ……(一同笑)

山村
位置感がないね(笑)。

和田
まあそこは、自分と相談しながら。

山村
でもそこが面白いところだよね。所在の不思議な感じが。

和田
でも、意外とそのことが構図を制限していることに最近やっと気付いて。だから、そことの歩み寄りというか、もっといいやり方があるんじゃないかと模索しているんですけど。難しいですね。

山村
和田くんはちゃんと余白のかたちは意識しているから。絵を勉強している人には当たり前のことだけど、人物を描くってことは余白を描くことだから。その人自体を描くんではないんだよね。そのかたちがいかに成り立っているかによって、人物が生きてくる。それが構図だから。

土居
山村さんは絵の勉強はきちんとされているわけですよね。

山村
一応、アカデミックなことは学んでます。それをしらずに映像をやっちゃうと……若い人の作品をみると、やっぱり構図を全然考えてない。画面が成り立ってないんだよね。「成り立つ」ってこと自体を全然わかってない。

土居
「成り立つ」っていうのは、さっきおっしゃっていた根拠をもっているかどうかで決まるんですか。

山村
いやいや、一枚の平面として成り立つかどうか。みんなそれを考えてない。フォンタナっていたよね、画面を切り裂く画家が。キャンバスを切り裂くだけだけど、画面としては成り立っている。一本の線だけで画面が成り立つことを知っている。そういうところにその人の感覚なり美意識が働くべきで、そうすることでほんとはもっと画面に緊張感が生まれるはずなんだけど、そういうことを考えて配置してない。それが余白を描くってこと。



『カフカ 田舎医者』(2007) ⓒ Yamamura Animation / SHOCHIKU

大山
画面についてですけど、汚しがあるじゃないですか、ぐるぐるが。それを静かにスライドさせていますよね。

山村
そのぐるぐるに対しては、「大胆すぎるんじゃないか」という意見もある。これは煙の表現で、かなり意図的に目立つ様にしている。滑らかな煙を流動的に描く方法もあると思うけど。でもこれは、画面が常に遮られた状態にあることを観客に意識させて、ちょっと絵と浮いてるな、というくらいに思えるようにするためのもの。このぐるぐるがないと絵がつまんなくなっちゃう。滑らかな煙にしたり、ぐるぐるにぼかしをかけてさりげない存在にしてしまうことは当然できたんだけど、やらなかった。でも、それでも気にならないように、部分的にぼかしを入れて、少しは馴染ませるようにしたんだけど、なじませすぎないようにした。「画面が常に遮られている」というのはテーマ。吹雪か、このぐるぐるで。少年の家に着いたとき、一瞬だけフワッと消えるんだけど、それ以外は、汚す。

和田
ぐるぐるも動いているんですよね。

山村
それは動いてないです。二枚のぐるぐるをスライドさせているだけで。

大山
黒ですか、グレーですか。

山村
普通の2Bの鉛筆でぐるぐる書いているだけ。

ニメーションの暴力表現・官能性

大山
『婦人公論』の金原さんとの対談で、山村さんが「アニメーションが暴力とか性に関してあまり踏み込めない」とおっしゃってましたが、それはどういう意味なのかを聞いてみたいです。

山村
メディアの違いなのかな。映像だから、どこかで漠然とした規制があるように思えるんだよね。文字と違って、直接的に性器を描けば、まず公開の幅は狭くなるよね。暴力に関しても、特にアメリカなんかは敏感で。『どっちにする?』でこどもがオモチャの銃を向けている絵があるだけでも、「作品としては問題ないんだけど、プログラムの写真にこれは使えないので、別の絵を」と言われたり。すごく敏感ですよね。

イラン
銃を向けるだけ、ガラスの破片を見せるだけ、それでもダメ。コードがあるんです。

山村
とにかく規制のコードがいっぱいあるから。金原さんの小説とか、すごいんですよ。痛い描写や性の描写や……文字の上ではあれが普通に流通できるわけですよ。

大山
映画だと、R指定がありますもんね。18歳とか15歳とかで制限が。本はないですよね。ヌード写真が載ってれば別だけど。

山村
小学生だって手にとれるわけだよね。それは不思議。アニメーションなんて、絵じゃない。実写だったらもっとダイレクトだけど。でもアニメーションでも同じ扱いだと思うんだよね。

土居
大山さんの作品も、NHKでは流せないわけですからね。

山村
あるんだよ、規制が。テレビに流すとなると、さらに幅は狭くなる。劇場だとある程度の商業館でないところなら、流せるというところがあるんだけど。規制コードってのはあるよね。

土居
暴力的なものや性的なものを表現として入れてみたくなることってあるんですか。

山村
若干はある。若いときはもっとあったと思うんだけどね。やっぱり、今の立場になると、漠然と自分でストップをかけてしまうところがあるかもしれない。

大山
僕が対談の文章を読んで想像したのは、そういった第三者に観てもらえなくなるという意味ではなくて、アニメーションという技法そのものが、暴力的なものや性的なものや……あと、僕がよく言っているのは、ホラー映画なのですが、ジェイソンでもなんでも、実写のホラー映画から受ける恐怖っていうのは、文章でも一枚絵でもアニメーションでも味わえないもので、ホラー映画はすごく実写映画的なものだなと感じてるんです。、それに近い感じで、暴力的・性的なものっていうのは、実写の方が適しているから、アニメーションではあんまり、向いてないという意味なのかなと。

山村
そこまで考えた発言ではなかったんだけど。確かにアニメーションであまりいいサスペンスものもない。スリラーも。

大山
所詮絵空事、っていう意識があるから……

グェン
性的なものでは、「Desire & Sexuality」シリーズがありますよね。

山村
あれは面白いよね。人間の根源的な欲望をメタファーとして、かたちを変えて表現するのは向いているから。僕も最近、そういうテーマや傾向が入ってきているから、興味あるんだけどね。ダイレクトじゃない部分。

土居
『カフカ 田舎医者』だったら馬とか。

山村
そうですね。『年をとった鰐』も、モロにそういう話だといえばそうだし。タコの動きはそういうことをかなり意識していた。馬については、原作を読んだ時からそういうことを感じていたので。馬子以上に馬の方が男性の性欲の象徴なのかなって。そういっちゃうとつまんないから、あまり言わないようにしてるんだけど。セクシーさがでることは意識していた。

土居
タコのあの「肉欲をかきたてる」動きの震えの表現は今から見なおしてみてもすごいんですけど。

山村
タコは林静一さんにも褒められて嬉しかった。すごくエロチックだって。やはりつくりだした動きでそういうものを感じさせるというのは、アニメーションとして面白いよね。


『年をとった鰐』(2005) ⓒ Yamamura Animation

るえについて

土居
『田舎医者』で震えの表現が注目されますけど、『鰐』からだいぶ意識的に震えの表現は取り入れてますよね。

山村
昔から実はやってるんだけどね。意識的ではないかもしれないけど。震えといえばポール・ドリエセンを思い出すんですけど、ドリエセンもすごく好きで。『カロとピヨブプト』とかはすごくドリエセン的な線の震えを取り入れようとしていて。やはり、無意識の動きになることが、アニメーションの面白いところになるんだろうなあ。

土居
でも、『鰐』までと『田舎医者』では、方法論としての違いがあるのは確かですよね。

山村
ちょっとやり方が違うのかもしれませんね。

土居
ドリエセン的な『鰐』までと『田舎医者』というのは、見た目は震えとして同じなんですけど、原理的な違いがあるという印象があります。

山村
たぶん『田舎医者』の方は、フォルムにまで影響する違いというものがある。マチエールとしての震えよりも、もっと極端にやっちゃってるから。

土居
いままでは、手法のなかにナチュラルにあるものだったわけですね。

山村
たぶん普通に動画をつくろうとする人は、震えを意識的に排除しようとする。ドリエセンやタクさんみたいに自分のスタイルに取り入れている人以外は。関係ない線は震えないようにする。でもディズニーも止まっているシーンでもどこかを動かしていたりする。微細な動きがないと、緊張感がなくなるから。みんな技術としてどっかしらで動きをつくっているというところがある。手描きっぽいアニメーションだと、数枚の絵を取り替えて動かして緊張感をもたせるってことがよくある。それは当たり前の技法としてみんなやっている。

土居
『カフカ 田舎医者』のパンフレットのなかで、柴田元幸さんが「アニメーションはこんなに自由にできる」って書いていましたけど、一般的な受容のレベルでは、震えるっていうことは意識されていないんですよね。

山村
あそこまで勝手にかたちが変わったり、主人公の顔も全然統一していなかったり、そういうところも自由に感じるのかな。

土居
あの絵柄で震えるっていうのも。

山村
あー、リアル風な絵で。震えを利用するのはカートゥーン的な絵が多いよね。

土居
ちょっとギョッとしちゃうところがあるのかなと。
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