個人的には今年一番の衝撃はドン・ハーツフェルトという作家との出会いでした。彼の作品に対する抑えきれない思いは、彼の作品をフィルムで大画面で大勢の観客と観たいという強迫観念に変わり、ついには僕をオタワにまで飛ばすことになってしまいましたが、実はその直前から、ハーツフェルト氏にいくつかの質問を送っていました。短編アニメーションというメディアの本質論からスタートして、彼の作品(特に"Everything will be ok"トリロジーの二作)を観て考えざるをえなかったナイーブな質問もぶつけてみました。彼は自作の巡回上映An Evening with Don Hertzfeldtでは上映の後に観客とのトークセッションを必ず設けていますが、このメールインタビューではそのセッションにならって彼を独占したかたちをとらせてもらい、そして彼もこの長過ぎる質問に対して、丁寧に、丁寧に、答えてくれました。楽しませることと誠実でいること、その両方を兼ね備えた彼の言葉は、彼の作品の持つ感触そっくりで、個人作家の短編アニメーションは本質的にパーソナルなものをダイレクトに反映するのだということを改めて確認させてくれます。
短編は長編には不可能な水準の強烈さを保ちつづけることができる。観客を疲れさせたり、イラつかせたりすることなしで。一分間にかなりの量の情報量を詰め込んでしまえるんだ。出来の悪いアクション映画を観たとして、それがセット撮影と爆発だらけの作品だったりすると、すぐに目が痺れてしまって、観るのをやめてしまう。観客が一息ついて、リラックスできるような時間を作らないといけないんだ。コメディだってそう。もちろん短編だって、観客が休憩できる時間を入れる必要はあるよ。音楽だってそう。息抜きの時間が数カ所用意されている。でも、全般的に考えれば、短編なら作品のほぼ全編にわたって、その攻撃的な状態を保つことができるんだ。I am so proud of youは22分の作品だけど、そこには長編映画と同じくらいのスケールが含まれてる。もうちょっとでも長かったら、観客は頭痛がしはじめてしまうんじゃないかな。情報とイメージが絶え間なく襲ってくる作品だから……この作品にはほぼノンストップでナレーションが入ってるけど、それは90分の映画ではできない。観客は劇場から出ていってしまうと思う。長編映画における情報量は少量に抑えられなきゃならない。人間には集中できる時間の限界があるんだ。そのことについての研究結果をなにかの記事で読んだことがある。人間は、ひとつの仕事、ひとつの物語に可能な限りに集中していたとしても、心はかなり頻繁に白昼夢を観ているような状態に陥ってしまうみたいなんだ。だから、同じ映画を二度観たとしても、必ず新しい発見がある。どう頑張ったとしても、一回目に観たときには見過ごしてしまうものがある。 今から考えると変な話だけれども、Everything will be okとI am so proud of youは[シリーズものであるにもかかわらず]続けて観ることを想定してないんだ。ツアー中にこの二作品を上映するときは、二つのあいだに笑えるカートゥーンを挟んで、観客がリフレッシュできるようにした。第三部まで完成したとして、それを全部続けて観たとしたら、時間的には長編映画並になってしまうだろうけど、たぶん頭痛がしてしまうんじゃないかと思うよ。 ――人間のキャラクターを作るときの方法論について教えてください。あなたの作品(特にEverything will be okシリーズ)の人間のキャラクターは、(大抵のアニメーションが そうであるように)特定の人間性を戯画化したり単純化したりした結果として生み出されたものではないように思えます。まるで、本物の人間が映っているような気がするんです…… ありがとう。ヴィジュアル的には、ビルは僕が作ったキャラクターのなかで、余分な要素が最も削ぎ落とされた人物なんだけど、それによって非常に微細な表現が可能になるんだ。彼の目のなかで、エンピツの粒子のいくつかがミリ単位で動いたとする。たったそれだけで、彼の表情や様子は劇的に変化する。彼が何を考えているのかがわかってしまうんだよ。もちろん、ビルのキャラクター性というのは僕が考え出したものだ。ビルは良い人間であろうと努力している人物で、観客にとって、自分の身に引きつけて考えやすいキャラクターだと思う。ビルは一言もしゃべらないけど、それでも観客を泣かせることができる。そのことを僕はとても気に入っているよ。僕はサイレント映画が好きなんだけど、最近になって、ビルというキャラクターも基本的にはサイレント映画のスターなのだということに気付いたよ。
ノンフィクションの本を読んだり、ドキュメンタリーを観ることでわかるのは、想像で作りうるものよりも、現実に起こったことの方がより奇妙で驚くべきものなんだってことだよね。僕はビルというキャラクターを、そういった領域に置きたいと思った。あまりに行き過ぎた状況に彼を置いてしまえば、彼を身近に感じたり彼に関心を払ったりするのは難しくなってしまっただろうね。ビルの人生を構成する多くのエピソードは、実際にあったことから取られてる。僕が実際にした会話や、実際に見た夢や、科学的な読み物や、昔の日記から引き出してきたエピソードといったものだ。ビルの家族の物語については、1900年代初頭の新聞記事や死亡記事から取ってきた。でもこういったことって、どんな作家だってある程度やっていることだと思うよ。つまり、自分自身の人生から、より大きな物語を編み上げていくという作業だね。 ――インディペンデント作家のアニメーションは、作家自身のパーソナリティや物の見方を反映しやすいですが、ビルはどの程度まであなたと同じなのでしょうか? 彼の考えることのほとんどは、僕が考えたり怖く思ったりすることだね。どうやら、自分が何かについて心配に思うときには、それを作品や物語というかたちにすると、その悩みが減ってくれるみたいなんだ。 ――Everything will be ok、I am so proud of youのナレーションは実に素晴らしいです。テキスト自体が美しく、観客の想像力を喚起する力を持っています。これらの作品において、脚本、そしてナレーションの行為が持っている重要性について教えてください。どうして自分でナレーションをしようと思ったのかについても教えてください。アニメーション一般における、ナレーションと映像の関係性についてもどう思いますか? Everything will be okシリーズについては、本当は自分ではナレーションをしたくなかった。でも、僕が作業をするのは自分の家だし、サウンド・ミキシングも脚本の書き直しも自分でやっていたから、そうなると、真夜中に録音をやり直したり新しいナレーションを吹き込む人間は、自分以外にいないことになる。僕は自分がそれほど良い声優だとは思わない。良い声優というのは、一ヶ月以上もイライラするような作業を続けたりなんかせず、昼間に完璧に演じきってしまえる人間だと思うしね。 ナレーションがこれほど重要になるなんて、最初は考えてなかった。ナレーションを適切に入れられるかどうかは、映像の編集を適切に行いうるのかと同じくらいに重要なことだと思う。脚本に新たな力を与えてくれることさえもあるんだ。紙の上では素晴らしいのに、声に出して読んでみるとバカみたいに思えることがあるし、逆に、書かれた状態ではあまり良くないのに、声に出してみると素晴らしくなることもある。 でも、僕が自分の作品に望んでいるのは、映像、言葉、音、音楽……あらゆるの要素の奔流によって観客を圧倒するってことなんだ。観客が、ナレーションや映像というかたちで浴びせかけられるあらゆるディテールを追うことは想定していない。圧倒的で、少々混乱をもたらすようなものにしたかった。情報と情動が溢れ出してきて、観客を運び去ってしまい、時には多すぎるほどの、時には少々足りない程度のものを観客に対して与え、観客の方が好きなようにそこから選び出せるようにしたんだ。
そう、実写映画のウインドウは登場人物たちを突き放しているんだ。彼らは、自分自身の生きる環境から明らかに切り離されてる。もしかしたら、あらゆるものから切り離されてるとまで言ってしまえるかもしれない。この作品で観客が目撃することになるのはすべて、ビルの視点からみた世界なんだ。彼が自分について感じること、彼がオフスクリーンで見聞きしていること、彼が想像したり思い描いたりした過去の出来事、そして彼が見る夢、僕たちの頭のなかにも飛来しては消えていく、気を散らしていくようなイメージ……アニメーションと実写映画のあいだの関係性については、第3章でさらに突き詰めていきたいと思ってるよ。 2 > |
|
ドン・ハーツフェルト インタビュー < 1 2 >
|