ン・ハーツフェルト
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i am so proud of you ©bitter films

――唐突な質問です。あなたは運命論者ですか? 僕たちの存在は僕たちを超越した何らかの力によって規定されていると思いますか? 一般的に、あなたの作品はThe Meaning of Lifeで変化したと考えられています。笑えるものから、深遠なものにです。しかしあなた自身は、すべての作品は同じ言語を話していると言っています。もしあなたの作品に共通点があるとすれば、ほとんどの作品が、ちっぽけな存在(人間であることが多いです)と、その存在に属することのない力との関係を扱っていることではないでしょうか。たとえば、everything will be okI am so proud of youでは、主人公のビルが扱いうる力と彼にはどうしようもない力(病気、遺伝、無意識、他者、自然の諸力、死……)の関係が描かれます。同じことが他の作品についても言えます。The Meaning of Lifeでは小さな人間(や未来人)と巨大な宇宙が、Rejectedではかわいいキャラクターたちと彼らを作品のフレーム外から襲う力が、Billy's Balloonでは子どもたちと暴力的な風船が対比的に登場します。

そうだね、全部正しいと思う。ただ、自分のことを運命論者と呼んでいいのかはわからない。すべてが決まってるだとか、敗北主義だとか、そういう考え方は僕にとっては意味をもたない。でも、自分の人生をきちんとコントロールできている人間はあまり多いとは思えないな。遺伝や病気、偶然みたいに、君が今挙げたような要素があるから。
それに、多くの人は、自分で自分をコントロールすることを望んでさえいないと思う。自分の持っているものに満足して、自分の人生をきちんと讃えることができている人はとても少ないと思うよ。今日ちょうどこんな記事を読んだところだよ。アメリカ人はこれまでのいつよりも長生きするようになった。ガンになる確率は減っている。でも、彼らはこれまでのいつよりも幸せを感じていない。いつも不満足で、なんとなくフラストレーションを感じてる。そして、自分を取り巻く商業文化のせいで、不満でいるように仕組まれているんだ。僕も含めたここ数世代は、自分たちはみなスターで、技術はみなを幸せにしてくれるという考えを売りつけられてる。自己中心的でいることが善とされて、テレビ番組の登場人物みたいな気分になっている。人生の目的は金持ちになることだと思っているんだ。「個性」という名のもとで自己中心的でいることが讃えられてる。アメリカ人の中流階級は、自分たちを中流階級だと思ってない。「まだ金持ちじゃない」と考えているんだ。間違いなくそうなんだ。こんな考え方に年がら年中晒されたら、盲目になって、不幸せな生き方をさせられてしまうのは当たり前のことだよ。本当は存在しない誰か、決してありえない瞬間を求めつづけるわけだから。だからもし厄介な伝染病が流行したり隕石が落ちてきたりしたら、二重の意味で不幸なことだよ。人生の最後の瞬間に、そんな夢から目覚めさせられることになるわけだからね。
脱線に思えるかもしれないけど、これはビルの物語にとても似ているんだ。彼は突然恐ろしい事態に直面して、まったく新しいレンズから自分の人生を覗くことを強要される。これまで重要に思えていたことが、余分で無意味だったことがわかり、あらゆるものが新しく、そしてシュールに思えてしまうんだ。

――あなたの答えをお聴きしていて、思ったことがあります。もしかすると、あなたの作品が観客を圧倒しようとするのは、ある意味では「目覚めさせる」ためと言っていいのではないでしょうか。あなたの作品の圧倒性は、人生自体がもっているそれをいつも感じさせます。そこで質問させてもらいたいのですが、アニメーション映画における倫理性というのはあると思いますか? アニメーション作家がもつべき責任、もしくはアニメーション作家が触れてはならない禁忌というものはありますか? あなたは単に笑える作品を作ることもできそうなのに、決してそうしません。

いや、そういったものがあるとは思わないな。もちろん、倫理は悪いことじゃない。でも芸術はどこにだって辿り着くべきだと思うし、リスクを冒すべきだ。それこそが芸術の役割だよ。押し進めて探求し、観察し、そして挑戦する。世界に存在するあらゆるものを反映すべきなんだ。美しかろうが醜かろうが。そうじゃなければ、自分に対して誠実じゃないことになる。

――関連してもう一つ質問させてください。愚問かもしれませんが、僕たちは「目覚めた」あとにどうすればいいんでしょうか? 僕はときおり、中途半端に目覚めるくらいなら最後の最後まで目覚めない方がマシなのではないかと思うことがあります。たとえば、自分がいつかは死ぬということ。それをきちんと認識することは、人生に対して悲劇的な観念を抱くことにもつながってしまうのではないでしょうか。そういった観念を逃れるにはどうしたらいいでしょうか、もしくは、そういった観念を抱きながら生き続けなければいけないのでしょうか。

思うんだけど、その問いって、一生を通じてようやく自分なりの答えを見いだせるようなものなんじゃないかな。でも基本的には、自分がこの世で持ちえている時間を讃えて、それを目一杯に活用して、物事を当たり前と考えたりしないということなんだと思う。自分が永遠に生きるわけではないのだという目覚めの意識を持つこと。(でも驚くべきことに、そういったことをきちんと考えようとする人はどうやら少ないみたいなんだけど……)自分が子どものときがどうだったのか、自分を取り巻くシンプルなものに対してあの頃どれだけ驚かされたことか、そういったことを思い出して、生に対する好奇心を失わないことなんじゃないかな。こういったことって、とても基本的に思えるけど、でも簡単に忘れてしまうことなんだ。
でも一番重要なのは、まず第一に「目覚める」ことだと思う。ビルのように。多くの人はそうじゃない。取り返しがつかなくなってようやく気付く。(これってプラトンの「洞窟の比喩」みたいなものなんじゃないかな?)今自分が何をすべきか、どのように生きるべきか、そういったことっていうのは、結局のところ、個人個人が自分自身に対してのみ答えうることなんじゃないかと僕は強く思うよ。アーサー・ミラーを引用すれば、「私が確信する唯一のことはこうだ――とあるイデオロギーに従って生きる人間は考えるのをやめてしまっている」。もっともだと思うね。


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――本題に戻りましょう。でも、またしても唐突な質問です。脳についてどう思いますか? 頭蓋骨のなかにある肉が、(I am so proud of youでのビルのように、)バカみたいに大きくて、存在さえしていない世界を想像しうるなんて、奇妙に思えませんか? 

神経学の本はたくさん読む努力をしている。つまり、理解したいと思っているんだ。でも、読めば読むほど不可解に思えてくるんだよね。無意識の領域で起こっていることは、僕たちの脳内で意識されているものよりも活発で、かなり明晰で、そして面白いらしいんだ。自分の人生をコントロールできないというさっきの質問に関係させてみれば、こんな奇妙な研究成果もあるんだよね。無意識こそが僕たちの行うありとあらゆる決断を作り上げていて、しかも「自分で決断した」という錯覚さえも僕たちに与えているらしいんだよ。あらゆる衝動、あらゆる動機、僕たちの頭のなかに浮かぶあらゆる考え、そういったものは無意識の部分で、意識にのぼる数秒前にすでに作り上げられているんだ。これってまるで、僕たちはあらかじめ与えられたプログラムみたいなものを遂行する存在なんじゃないかって思えてしまう研究結果だよね。誰かがいつか、裁判の弁護でこの研究を使うんじゃないかって思ってるよ。

――最後の質問です。I am so proud of youには興味深いエピソードがあります。「永遠を構成するあらゆるものはすべて決定されていて、すでに展開されている。そして僕たちは、同時に起こっているそれらすべての出来事が構成する無限の風景を、偶然に一方向に進んでいるだけ。」この考え方は、Everything will be okI am so proud of youの(物語の、そして視覚的な)構造とまったく同じではないでしょうか? つまり、たくさんのウィンドウがスクリーン上にあって、いろいろな時間や場所で起こった出来事が展開するという構造です。僕自身の感想を言えば、この二作を観るたびに、こういった構造は僕たちの記憶や内的な世界の構造と同じなんじゃないかとも思ってしまいます。こういった考えについてはどう思われますか? もしかしたら、良い質問じゃないかもしれませんけど……

いや、君は完全に正しいと思うよ! I am so proud of youの物語構造が時間や空間を飛び越えていくのは、まさに君の言った理由があるからなんだ。それに、フィルム自体の物理的な構造も、この理論を完璧に裏付けてくれるんじゃないかな。つまり、僕たちは時間的に一方向に進むわけだけれども、だからといって、前に体験した出来事や瞬間は存在するのをやめてしまったわけではないし、これから体験する出来事や瞬間がまだ起こっていないものだとは限らない。この理論は物理学の本から取ってきたものなんだけど、とても美しいし、この作品の構造にぴったりだと思ったんだ――すべては反復し、始まりも終わりも、何度も何度も同時に起こっている。でもこの考えは、すべてがあらかじめ決定していることを意味しないと思う。すべての未来が「今まさに」起こっているとしても、それでも自由意志というものは働きうると思う。
第3章の構造は第1章に近いものになると思うよ。一つの時間軸に沿って展開していくかたちにね。

2009年10月10日から11月4日にかけてのメール・インタビューを抜粋・編集




everything will be ok (c) bitter films


ドン・ハーツフェルトDon Hertzfeldt

1976年、カリフォルニア生まれ。14歳の頃からアニメーション制作を始め、子どもの絵のような棒線画のキャラクターとそれを用いた暴力的な展開の作品によって、学生時代の作品から人気を博する。彼の大出世作となったのは2000年のRejectedで、アカデミー賞にノミネートされたこの作品は、インターネットの動画サイトを経由して瞬く間に全国的な人気を博し、彼のポピュラリティーを一挙に高めた。2005年のThe Meaning of Lifeからは、ヴィジュアルのスタイルを変えぬまま、作品を一気に存在論的な次元にまで引き上げることに成功、近年では、ヴィジュアルのシンプルさがもつイメージ喚起力を逆手にとって、笑いと悲しみに同時に襲われる大スケールの作品制作を続けている。2006年のEverything will be okはサンダンス映画祭の短編部門で審査員賞を受賞するなど、実写映画色の強い映画祭でも評価を受け、現在までに獲得した賞は150を超える。
ハーツフェルトについて特筆すべきなのは、短編作家には珍しいほどのポピュラリティーである。「ビーバス・アンド・バットヘッド」シリーズのマイク・ジャッジとともに2003年に開始したThe Animation Showは彼らが気に入った短編アニメーション作品を全国で巡回上映するというもので、これもまた成功を収める(ただしハーツフェルト自身は「MTVが関わって商業的になりすぎた」という理由で4回目以降は手を引いている)。2008年のI'm so proud of youの完成時には、自作のみを携えてアメリカを中心とした三カ国のツアーを行い、計22箇所の公演はすべて売り切れている。前作までに自作で獲得した資金を自作の制作費と自身の生活費に回すことで、自作の短編アニメーションの制作のみで生活することができている、世界でも希有な作家である。もっとも本人は「偶然アニメーション制作の作業をすることになった映画作家」であると自分のことを考えており、美術学校ではなく映画学校に通ったうえでアニメーション制作をしているという面でもユニークな存在である。

公式サイト:bitter films

フィルモグラフィー

1995 Ah, L'Amour
1996 Genre
1997 Lily and Jim
1998 Billy's Balloon
2000 Rejected
2003 Welcome to the Show/Intermission in the Third Dimention/The End of the Show
2005 The Meaning of Life
2006 Everything Will Be OK
2008 I am so proud of you

○DVD情報
bitter films volume one: 1995-2005[bitter films]
→"Ah L'Amour"から"The Meaning of Life"までの作品を収録したDVD。140ページ超のプロダクション・ノートや未公開映像、ドキュメンタリーなど、盛りだくさんの内容になっている。

everything will be ok[bitter films]
→普通の人ビルを主人公とした三部作の第一作everything will be okのシングルDVD。DVDには珍しいほどの高画質と100ページ超のプロダクション・ノート(+隠しコンテンツ)付き。

i am so proud of you[bitter films]
→三部作の第二作i am so proud of youのシングルDVD。148ページのプロダクション・ノート付きの限定版。

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