(後編)アニメーションの正統性
「 ート・アニメーション」「アニメ」という名称
土居
この会のどちらかというと批評側の問題として、「アニメーションの正統性を探していこう」ということがあるのですけれども。正統性という言葉はなかなかどう定義していいかわからないし、おそらく具体的な作品とぶつかっていくなかで見出していくしかないんですけども。今までアニメーションがどういうふうに語られてきたかってことがあって、例えば山村さんは、「アート・アニメーション」だったり「アニメ」っていう言葉に対して嫌だと言ってきたわけですよね。例えば「アート・アニメーション」っていう言葉は、「ハイ・カルチャー」対「ロー・カルチャー」だったり、「商業」対「芸術」だったり、そういうことで観客を限定しちゃうという弊害がある。一方で、「アニメ」っていう言葉は、一般的にはアニメーションの略称として使用されていることもありますけれども、「アニメ」っていわれたときに、線画でベタ塗りで記号的な表現で……っていう固定観念によって、すべてのアニメーションが平準化して捉えられてしまう可能性があると思います。山村さんは、「アート・アニメーション」だとか「アニメ」という言葉を嫌がっているのは、どういう理由からなんでしょうか。
山村
今すごくうまく言ってくれたので、補足することもあまりないけれども、簡単にいうと、自分が面白いと思っているアニメーションってものが、単に「アニメ」だとか「アート・アニメーション」という括りに入りきるものではないというのは明らかにわかっていて、それに当てはめる良い固有名詞がなかった。実は固有名詞を与えることが大事なんじゃないかと思って一時期ずっと名称を考えていたこともあったのだけども、でもそれは違うなと思うようになって。結局、「アート・アニメーション」と言った瞬間に、その対比として「商業アニメーション」がある、みたいな図式になってしまって、何か名称をつけるのはまずいかなと。で、結局この会の名称もAnimationsに落ち着いたわけだけれども、やっぱり根本的なアニメーションの本質や面白さをえがきだすことが、一つ大事なんじゃないかなと。だから、アニメーションの本質というものを、名称にこだわらずに探っていきたいなと。アニメーションという一つの分野のなかで、輝くものとそうではないものは何が違うのかということを、表面的な流行や好みとは関係なく身につけたいと思うし、自分たち以外の広い観客の人たちにも理解してほしいなと。ただ、「アート・アニメーション」という言葉が日本ではとても浸透してしまっていて、奇妙な状況にはなってきてるので、どうしたものかなと。
大山
「アート・アニメーション」という言葉はどのくらいから出てきたんですか?
土居
あの本が出てからですかね。
山村
あの本だよね、『アート・アニメーションの……』
荒井
『……素晴しき世界』[『アート・アニメーションの素晴しき世界』 (エスクァイヤマガジンジャパン、2002)]。
土居
あの本自体はとても意義のある素晴らしい本だとは思うんですけども。逆に、「アート・アニメーション」とか「芸術」だとか語る上でのそういう言葉が逃げにしかならない状況も出てきてしまっているわけで。「わかんないからとりあえず”アート”って付けとけばいいや」と、とてもフェアじゃない語り方がされていると僕は思ったので、「カートゥーンだから駄目だ」とか「芸術だから見なくていいや」とかではなく、ニュートラルにーまあ、ニュートラルなんて無理な話ですけどもーフェアな見方をして面白いものは面白いと言えるようになりたい。商業作品だからといってすべて駄目だと言ったり、芸術作品で変な技法を使っているからといって良いと言ったりするのではなく、そういった外部の情報をなるべく振り払った上で、面白かったり面白くなかったりするのはどうしてかっていうのを判断する。そこからテーマや手法や制作状況について考えるというそういう方法が有効なのではないかと思いますね。
山村
そうだよね、やっぱり、裸の目で、純粋なままで感じ取るものからきちっと善し悪しを理解しないと。短編でも当然共同制作でやって、資本があって作っているわけだし。「商業だから」といって悪いと切り捨てるのはほんと危険だと思うんだよね。
ッテル貼りから逃れる
土居
英語圏だとanimated cartoonという言われ方をすると思うんですけど……
イラン
確かにありますけれども。結局、animationという一語の方が良いと思うんですけど。確かにcartoonという便利な言葉や、character animationという区別もありますが、日本ほど悩みはない気がするんですよね、区別の仕方には。どうして「アート・アニメーション」だとか様々な言葉が出てくるかといえば、それはぴったりとした名案がないからではないでしょうか。
山村
逆にレッテルを貼ることで安心感を得るということもあって。「アートだから見なくていい」などという考えにつながる危険性があって、でも日本人はそういうレッテルがあると安心して理解しやすいというのもあって、だから無意味に言葉にいろんな言葉をくっつけて一つのジャンルを作っていくのが得意な気がするんだけれども。例えば「オタク」という言葉がどんどんいろんな意味を吸って広がっている感じで。
イラン
そういう言葉が輪郭をぼやかして。
山村
核の部分がみえにくくなると思うんだよね。「これはオタクのものだから……」というように納得できる言葉にされてしまうことがあって、「アート・アニメーション」という言葉もそういう危険性のある言葉だなとずっと警戒をしていたんだけど。でももう面倒くさくなって使っちゃうこともあるんだけど(笑)。例えば具体的に言えば、ブログなどでカテゴリー別のランキングがあって、「アニメ・マンガ」「アート・アニメーション」となっていたらどっちを選ぶかという問題があって、「他にないのか!」と言いたくなるんだけども(笑)。
イラン
つまり、世界そのものが、そういうカテゴリーによって形成されてしまうということですね。
山村
この会が目指しているようなものはないに等しいわけですよ。今、日本のなかには。
土居
そういった事態にこそまさに抵抗していかなければならないわけで。
山村
広げて、壊していかないと。
土居
「マンガ・アニメ」というカテゴリーもそうですし、[ジャンナルベルト・]ベンダッツィさんの本が"Cartoons"とタイトルが付いていたり[Giannalberto Bendazzi, “Cartoons: One Hundred Years of Cinema Animation ”, Indiana University Press, 1995]、マンガとぴっちりつながってしまっているわけじゃないですか。他の可能性にきっちりアニメーションを解放してあげないと。
「 場」の設定
山村
そうすることで、僕は新しいアニメーションが生まれてくると思うんだけど。結局、正統性ってことで、オーソライズしたいの。一つの地位とか、権威というと行き過ぎなのかもしれないけど、やっぱり芸術の一分野としての場所をアニメーションにもっとちゃんと与えたいなと思っていて、それに正統性という言葉を使っているのだけれども。正統性というと非常に危険な言葉でもあると思うんだけれども。排他的になって。
土居
でも、あえてそれを設定していかないと。
山村
今は何の足場もない状態だから。
土居
それを作ったあとに、いろんな人がそれを崩してくれるのはもちろん歓迎ですし。とりあえずこの会なりの見方ってのをきっちり提示する必要はあると思います。
山村
この会なりの正統性ってものを個々の作品に見つけて、それを関連づけていくなかでも見つけていければいいかなと思っているのだけれども。そうするとやはり、アニメーションはとても見やすくなってくると思うんだけれども。最初の方で言っていた[イシュ・パテルの]『パラダイス』(1984)のわかりやすさとは違う、作品を見ていく上でのわかりやすさってものが[編集部注:この座談会に先立って、パテル作品についての座談会が行われている。それについては、パテルへのインタビューも合わせて後日掲載予定]。
土居
僕は、[アレクサンドル・]ペトロフの『春のめざめ』(2006)ではなくて、[イゴール・]コヴァリョフの『ミルク』(2005)が観客賞をとるような状況になればいいと思っていますけどもね。
大山
それすごい大変だよ(笑)。ちょっと嫌だよそんな観客たち。観客の目が怖い(笑)。
ニメーションのリテラシー
中田
こういうタイプのアニメーションを見るのって、非常に訓練がいるんですよね。文章を読むように。独特の読み取り方があると思うんです。私が自分の作品に音楽をつけてもらう時に、作曲家さんに参考に短編アニメーション作品を何点か見てもらったんですが、「見方がわからない、難しい」って。私も最初は全くわからなかったので。どうしたらいいんでしょうね。
土居
映画とかマンガとか、絵画とかも、普段生活していく上である程度、見方のリテラシーってのは自然と形成されていくものなんですけど、こういうアニメーションっていうのは辿り着くためにものすごい努力や幸運が必要で。何も知らないまっさらな人が、例えばHMVのアニメーション・コーナーに行ってジェネオンのDVDを5800円出して買うっていうことなんてことはほぼなくて、見ることに至るまでの努力というのが異様に必要であるという状況がありますよね。
山村
そういうことは映画祭が担ってきたことであって、日本であれば広島[国際アニメーション・フェスティバル]がそうで、海外でも見てもらうとすればやはり映画祭しかないわけだけれども。あとやはりもう一つは評論が必要。
土居
そうですね。Animationsのウェブみたいにネットでどんどん配信していくことは、アニメーションに辿り着くための一つの良いステップになるんじゃないかなと思います。触媒として機能すればいいなと思いますけれど。
山村
あと、この会の発足の部分で僕が一つ目指したのが、80年代の蓮實重彦さんがやってきた評論活動で、それを僕はすごく尊敬のまなざしでみていて、とても真似できる領域ではないのだけれども、でも、ほんのささやかな形ででもそういうことがアニメーションでできないかというのが僕のものすごく高い望み。それは……(笑)、とてもプレッシャーだと思うんだけれども……(一同笑)。
土居
あー……、いちおう、あの、その人が作った学科[東京大学の表象文化論学科]にいる人間なんで……あのー……
山村
蓮實さんは映画のなかで見たものだけしか語らないというやり方をしていて、一つの固定観念からアニメーションを見ないようにしたいというところでは見習うようにしたい評論のやり方だと思うのだけれども、やはりそれはアニメーションでは難しいかなと思う所もあった。なぜかというと、アニメーションの魅力というのは「間」とか「タイミング」にあるので、言葉にもできないからこそ、アニメーターの人たちが追求している部分でもあって。でもこの善し悪しってものはかなり判断される部分がある。残念ながら「間」というものは画面のどこにも映っていないものなんだよね。
土居
見る人の生理的な実感でしか捉えられないものなんですよね。
山村
そこを具体的にどうしていったらいいかというのは一つ課題ではあるのだけれども。
土居
正統性とは別かもしれませんけども、「アニメーションというのは断片でできている」ということだったりとか、例えば蓮實重彦は「映画は向かい合う二人を撮ることができない」という事実から様々な言葉を生み出していったりしてますけど、そういう否定できないいくつかの事実は絶対に出てくると思うんで、それを示すことは必要だし、そこから生まれてくるものもあると思います。
山村
そろそろ時間がきてしまったので、「アニメーションの正統性」については今後、より具体的に考えていきましょう。今日は、ありがとうございました。
2007年4月30日山村浩二宅にて
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