イアン・ラーキン、
幻想の依存的誘惑に囚われて

 クリス・ロビンソン(訳・土居伸彰
Chris Robinson, “Ryan Larkin: Trapped in the Addictive Allure of Illusion"(2000) from Unsung Heroes of Animation(2006)
  
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 1960年代、ライアン・ラーキンは19歳で、ノーマン・マクラレンの秘蔵っ子だった。マクラレンのサポートを受け、ラーキンはNFBで滅多にないほどの特権を与えられ、今に至るまで、最も影響力の強いアニメーション作品の一つでありつづけている『ウォーキング』(1968)を製作した。今日[2000年]、ラーキンはモントリオールの福祉施設で暮らしていて、物乞いをしている。どうしてこのようなことが起こってしまったのか、誰が知ったことだろう。NFB側の人間とラーキンが言うことは食い違う。真実は両者の言い分の間のどこかにあるのだろう。私はラーキンを被害者にしようとも受難者にしようとも思っていない。彼は自分で選んでしまったのだ。そう、こういったことが起こってしまったのは、決断をためらってしまう彼の性格ゆえだ。ラーキンは優柔不断と共に人生を送ってきた。

 ラーキン一家は、モントリオールのドーヴァルの、1950年代的なクラシックな町並みの郊外に暮らしていた。父親は航空機の整備士で、母親は秘書として働いていた。ラーキン(三人兄弟の次男)は、早いうちから特別な子供だとわかっていた。だいたい10歳になるかならないかの頃にすでに油絵を描き、13歳のときには威信あるモントリオールの美術学校への入学を許された。だが学校が教えることは、ラーキンにとってもはやありきたりのことでしかなかった。まだ子供にすぎなかったので、毎週土曜日に父親に車で連れられ、授業を受けていた。ラーキンの教師となったのは、「グループ・オブ・セブン」[カナダを代表する風景画家のグループ]の一員であるアーサー・リスマーだった。ラーキンは、写生画や彫刻、油絵などの古典的な手法を徹底的に叩き込まれた。彼は学校でも突出した存在となり、数年後にはNFBでの職をオファーされるまでになった。

 ラーキンはかつてコカイン中毒で、今でもアルコール中毒なのだが、そういった逃避の背景には、深くトラウマを残した出来事がある。ラーキンは兄と仲が良かった。「僕にはロックをやっているチンピラどもの仲間がいた。僕はバンドに入ってドラムをやっていた。兄さんはその地域ではとても有名でね。オープンカーを走らせ、いつも女の子をはべらせていた。僕はといえば長髪のパンク・ロッカーみたいな格好をして、いつも彼に付いて回っていたよ。弟の典型例さ。」1958年、ラーキンと兄、そして友人たちは湖でボート遊びをしていた。なにかが起こってしまった。ラーキンの兄は死んだ。「恐ろしい事故だった。僕は兄を救えなかった。僕もボートの上にいたのに、彼の命を救うことができなかったんだよ。恐ろしい気持ちになったし、兄がいなくなってとてもつらかった。」コカインやアルコール以上に、この出来事がラーキンの悪循環の元となった。

 ラーキンは父親の尽力でNFBの面接を受け、驚くべきことに、アニメーション製作の経験がないにもかかわらず、19歳でそこで職を得ることができた。最初は軍隊や海軍用の教育作品のアニメーターとして働いていて、その経歴には、ぞくぞくするような叙事詩作品である"Ball Resolver in Antic"(1964)や"The Canadian Forces Hydrofoil Ship: Concept and Design"(1967)が含まれる。映画の内容はそれほど感銘を与えるようなものではなかったが、この経験自体はラーキンにとってとても重要なものとなった。アニメーションの英語部門のかつての責任者であるロバート・ヴェラルは言う。「ライアンの最初の仕事にはルネ・ジョドアンやシド・ゴールドスミス、カイ・ピンダル、ロン・チュニスなどの面々が揃っていました。19歳の見習い少年にとっては悪くない仲間です。これはNFBの方針に沿ったプログラムでした。こんな機会でもなければNFBとは関わることのない人々を雇って、トレーニングするのです。」

 NFBでの2年目か3年目、ラーキンはノーマン・マクラレンやギィ・グロヴェール、グラント・マンローといった人々と知り合った。ウルフ・ケニッグの強い勧めもあり、マクラレンはNFB内の一室で就業時間後のレッスンを始めたばかりだった。マクラレンとの関係は、ラーキンの眼前にまったくの新しい世界を開くことになる。「彼らはとても教養ある人々だった。大きな書斎を持っていて、僕を家に招いてそれを見せてくれた。とても魅了されたよ。うちは単なる労働者階級だった。家には飛行機の写真しかなかった。」ラーキンは、数々の本や絵画、クラシック音楽に夢中になっていった。「僕は若かったし、新しいものすべてが本当に印象的だった。」

 そのレッスン内で、マクラレンは熱意ある若い作家たち(その中にはピエール・エーベルやコ・ホードマン、ラルフ・エイブラムスも含まれていた)のためにプロジェクトを立ち上げた。「マクラレンは僕たちに16ミリのカメラを与えてくれて、口径測定の仕方だとかの細かい作業や、感覚をどのように使うべきかを教えてくれた。丸いボールの切り絵を使ってそれを一コマ撮りや二コマ撮りしていくテストもした。」それぞれの作家にはフィルムが一本与えられ、好きなものを撮影するよう言われた。ラーキンにとって、アニメーションは絵画と同様にしっくりときた。「ノーマンが言うには、僕には、どんな対象に対してもタイミングやペーシングをきちんとコントロールできる天性のものがあったらしい。」ラーキンは同時に、簡単に消すことができる木炭を使用した静止画の独特のテクニックも発展させていった。頑丈な紙を使うことで、紙に強く描いたとしても消せるのである。この新しい技術を用いて、ラーキンは『シティースケープ』(1966)という一分間のテスト映像を製作した。暗くて悪夢のような街の景色は生気に溢れ、奇妙なキャラクターたちが行ったり来たりした。ときおりぎこちなくなったり汚くなったりはしていたが、セメントで固められた庭の描写は、ショッキングで生々しく、ほとんど偏執狂的なものとなっていた。

Cityscape (1966) - Ryan Larkin © NFB

 ラーキンは『シティースケープ』を一コマ撮りで撮影していたが、「30秒ばかりで全部がすっ飛んで終わってしまった」。作品の尺を長くするために、ライアンはフィルムをオプチカル・プリンターにかけ、フィルムをリプリントして[コマの数を増やし]、前後のコマをダブらせ、一方でオーバーラップさせることによって、コマの移行が自然に思えるようにした。NFBの面々は『シティースケープ』に注目し、そのオリジナリティに魅了された。マクラレンはNFBのプロデューサーに働きかけ、木炭画のテクニックを使用して好きな作品をつくる権限をラーキンに与えるよう呼びかけた。「“さあ、予算をあげよう。3ヶ月で好きな作品を作ってくれ”と言われたよ。一週間使って何をつくるべきか考えた。ノーマンの友人が、クロード・ドビュッシー作曲の『シランクス』というフルート・ソロの小曲を僕に教えてくれた。フランス人のフルート奏者が録音したものなんだけど、それがはじまりになった。」そのフルート曲を使用し、ラーキンはギリシャ神話のパーンに着目することにした。牧神パーンは艶かしいシランクスを愛するがゆえにつけまわし、彼女を悩ませつづける。パーンの誘惑に耐えきれず、シランクスは大地の女神ガイアに助けを求める。ガイアはシランクスを葦の姿に変える。パーンはその葦を採り、楽器にする。

 作品が完成するまでに、ラーキンはいくつもの問題に直面する。音楽は主要な構成要素だったので、注意深く時間が計測されて映像のテンポが決められたのだが、ラーキンにはその曲の権利を買う金がなかった。そのかわりに、彼はモントリオール交響楽団のメンバーを見つけ、もっと安い金額で録音してもらった。しかし、思惑に反してマイナー調で録音されてしまったため、ラーキンは作品全体を撮影しなおさねばならなくなった。「最初は音楽無しでやってみようとしたんだけど、僕が望むほどには美しいものにはならなかった。だからとてもナーバスになっていたんだけど、ウルフ・ケニッグやボブ・ヴェラルが“全部撮り直しなよ”と言ってくれたんだ。」ああ、お抱え芸術家の幸運!ラーキンは撮影をやり直し、今度はシランクスのイメージや身体の描写により集中した。完成品は批評家受けもよく、『シランクス』(1965)はイランの子供映画祭でグランプリを獲得するなど、世界中で受賞した。


Syranx (1965) - Ryan Larkin © NFB

 ラーキンはいまやモントリオールのダウンタウンで王子様のような暮らしをしていて、大勢の友人たちに囲まれつつ、絵画や彫刻に勤しんだ。「僕は彫刻がずっと得意で、立体造形をやっていた。そしてアニメーションも彫刻の一形態だと思い始めてきたんだ。」ラーキンは小規模な個展を二、三開催し、NFBの多くの人が彼のドローイングや絵画作品を購入していった。ラーキンがインスピレーションを集めるのは、カフェやバーで人々が歩いたりしゃべったり動いたりするやり方を見てそれに没頭することによってだった。彼は人を観察することが好きで、人が歩く姿をスケッチしたり、友人たちにポーズをとらせたりした。ラーキンの友人たちはポーズをとる以上のこともした。子供がやると思われるようなことだ。ドラッグの力である。皮肉なことに、ラーキンはこのときはドラッグをやっておらず、その代わりに、LSD漬けになった友達にヴェルギリウスの詩を上演してあげていた。「彼らはいろいろな実験をしたものだけど、僕はしなかった。彼らが窓から飛び出したりしないように気をつけていた。」しかしすぐに状況は変わる。友人にも成功にも困ることはなかったのに、ラーキンは孤独なままだった。兄の死はラーキンの家族を静かにバラバラにしていった。「僕がボートに乗っていたけど、家族は誰も何が起きたかがわからない。そして僕は兄を救えなかった。」何かが変わってしまった。「僕はいつだってまぬけな少年だったから、家族はそのときも僕がへまをやったと思いこんだんだ。」ラーキンに直接何かを言う者はいなかったが、家族の目に彼を責める感情があることを彼は感じていた。ラーキンは美しい映像イメージに命を与えることができた。しかし、自分にとってもっとも大事な人の命を救うことはできなかった。>2

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