イアン・ラーキン、
幻想の依存的誘惑に囚われて

 クリス・ロビンソン(訳・土居伸彰
Chris Robinson, “Ryan Larkin: Trapped in the Addictive Allure of Illusion"(2000) from Unsung Heroes of Animation(2006)
  
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 『ストリート・ミュージック』の後、ラーキンはNFBが取り組む『ランニング・タイム』(1974)という長編映画の仕事を割り当てられた。コ・ホードマンと共に、実写の俳優とアニメーションの映像とをミックスした3つのシーンをつくるように言われたのである。しかし、『ランニング・タイム』は、すぐにライアンにとっての悪夢に変わった。「僕はそれに4年間も囚われていた。エグゼクティブ・プロデューサーがずっと棚上げにしてしまって、延々としたミーティングばかりで、僕は待たされ続けてうんざりしてしまったんだ。他に何かしようにも、予算も仕事もない。」欲求不満となったラーキンは、自宅で次のプロジェクト“Ding Bat Rap”の作業を始めた。この決断は、ラーキンをめぐる様々な神話の一つとつながってくる。

 “Cartoon Capers”という本で、著者のカレン・マズルケヴィッチは、薬物使用と鬱状態がひどくなったせいでラーキンは自宅へと逃れていったと主張する。解雇されるまでの二年の間、NFBは小切手をタクシーでラーキンに送っていたというのだ。ラーキンによれば、それは必ずしも正しくないという。「そのときに起こったのは、長編の企画がどこかへ飛んでいってしまったように僕には思えて、その間に僕は自分のアイディアを展開させておこうとしたってことで、だから自分の家でその計画を練っていたんだよ。僕は部屋を二つ持っていて、一つは住むために、もう一つはスタジオとして使っていた。そこで僕は自分自身の新作を練り上げていったんだけど、予算がもらえなかった。例の長編のエグゼクティブ・プロデューサーが言うには、“まだ上の方からの許可をもらっていないから、あと二週間ほど待って、スタンバイしていてほしい”ってことだった。」ラーキンは、NFBにいて何もせずに座っているのではなく、NFBが製作を許可してくれることになるだろうと思われた次の作品の作業をすることを選んだのだ。この状況はラーキンにとっては理想的で、もし午前二時に起きてしまったとしても作業ができる。こういったことはNFBのオフィスでは決して可能ではない。長編の作業が保留になっている間、自宅で“Ding Bat Rap”用の作業をしていることについてはプロデューサーも承知だったとラーキンは言い添えている。「長編のプロジェクトに取りかかれない以上、彼らにとっても問題はなかったんだよ。」

 約一年が経ち、新たな英語部門のプロデューサーであるデレク・ラムのおかげで、ラーキンはついに“Ding Bat Rap”の予算を手にすることができたのだが、彼は相変わらず家で作業を行っていた。「僕のことを信頼してくれとプロデューサーに言った。僕はプロジェクトに取り組んで、彼らは小切手を家まで送ってくれた。」タクシー代はラーキンが出した。ラーキンのプロデューサー、デヴィット・ヴェラルは、ラーキンを檻の中に戻す役を仰せつかった。「ライアンを作家として再びNFBに戻そうとするのに、私はものすごい時間と労力を使った。パーク・アヴェニューにある彼の家に何度も行った。私はライアンが好きだった。みんなそうだったよ。彼の作品は素晴らしいと思っていたし、彼はうまくやれるはずだと心の底から信じていた。」ヴェラルは、新しく購入したアニメーション用のカメラを一台使わせてあげようと提案することによって、少しの間でもラーキンをNFBのオフィスに戻そうとした。しかし結局、ラーキンはそんな状況に飽き飽きしたかもしくはストレスを感じてしまったのか、長い間姿を消してしまい、再び姿を現したときにはNFBから余計に自分を遠ざけてしまっていた。結局、ヴェラルは嫌々ながらも諦めることになる。

 “Ding Bat Rap”は、ラーキンにとって初めての「トーキー」となるはずだった。作品の舞台はバーで、いつもの面々がどうでもいいことをとんでもない熱意をもって話し続けるとものになるはずだった。「たくさんの人たちが、意味のあることなんて何も言わないまま話し続けている。手でおおげさなポーズをとってみたり、意味ありげな視線をお互いにかわし合ったりする。」そういった「おしゃべり」を再現するため、実験的に声優を雇ったりもした。実際の会話を録音したいと望んだゆえのことなのだが、声優たちがガチガチになってしまうことに気づき、そのアイディアは放棄した。サウンドトラックにはスウィングを選んだ。「NFBにはきちんと整理された音楽ライブラリーがあったんだ。どんなテーマの作品にも対応できるような。僕もそこから音楽を選んで自分で編集した。だから、音の方は編集までしたんだけど、ドローイングの方が足りなかった。5つくらいキャラクターを描いた。とても抽象的で、詩的な感じだった。ストーリーボードもあったし、いくつかイメージ画も撮影した。でも、実際のアニメーション部分は全然なかった。」

 この時期までに、ラーキンはコカイン中毒になっていた。コカインはラーキンにとって大きな魅力となっていた。魔術的でほとんどスピリチュアルといってもいいその経験は、ラーキンを今まで知ることのなかった世界へ連れて行ってくれた。「コカインは人間がどんなふうに振る舞うのかについて驚くほどの洞察力を僕に与えてくれたし、その振る舞いを構成しているのは何かということに対しても、とても鋭い感覚をもたらしてくれた。」しかし、ヘラクレイトスの言うこととは異なり、上りと下りは同じではなかった。上りつめたあとには、下りがある。神経への刺激はその反動に屈してしまう。アイディアの洪水に精神は溺れてしまう。ラーキンは自分が決して知ることのないものへの確信を強く持ったが、その魔法の魔力はラーキンを空想の世界に閉じ込めてしまった。魔術師は自分の魔術の誘惑に囚われ、ラーキンはもはや何もできなくなっていた。

 一方で、ラーキンの“Ding Bat Rap”を魅力的に感じていた者はNFBのプログラム委員会には誰もいなかった。ある特定の人種グループに対する諷刺としてラーキンが意図していたものは、ほとんど人種差別主義的なまでの反動的なものであるとみなされ非難された。「プライドでいっぱいの人たちに対する、音楽的で映像的なジョークを作っていたんだ。イスラム教的なものに対するアンチもあったし、キリスト教的なものに対するアンチもあった。その当時に起こりつつあった国家主義者的な態度をこきおろそうとしていたんだ。」マクラレンさえもラーキンに背を向けた。「ノーマンでさえも、僕の作品があまりにパンクすぎることにショックを受けていたみたいだ。」自分が保守的な制度にとって危険なものをつくっていると、ラーキンは自覚していた。一方で、自分が燃え尽きつつあることも感じていた。「もう僕は自分の力を失いつつあった。NFBに長くいすぎてしまったんだよ。創造的なものにストップがかかっていた。たぶんコカインのせいなんだろうけど。」ある意味で、ラーキンは成長することができなかった。少なくとも、ラーキンを取り巻く社会が禁じていたタイプの成長をしてしまっていた。もうすぐ40歳にもなろうというのに、いまだチンピラのように生きていた。ロックバンドで演奏し、若者たちとつるんで、バンドに資金援助したり、歌詞を書いたりしていた。ゴロツキどものゴッドファーザーだったのだ。ラーキンにとってもNFBにとっても、良い関係はもはや築きようがなかった。ラーキンにとってNFBは制約の多すぎる場所となっていた。コカインにまみれて混乱し、でも才能があったラーキンは、自由を取り戻したいと思っていた。その先に何が待っていようとも。

 アンコールを忘れる人はいない。1975年、ラーキンはNFBに壁画製作のために招かれた。しかし、ラーキンが描いたものは、NFB側が意図していたものとは異なっていた。勃起して、射精したりしなかったりしている若者たちの絵だった。壁画は横20フィート、縦15フィートの大きさだった。「男性性にたいする諷刺だったんだよ。その当時は女性の権利についての一年にも及ぶフェスティバルがおこなわれていたんだ。恐ろしいほどに自意識過剰なそういった真剣さから息抜きできるなコミカルなものをつくったんだ。」かくして、ラーキンの居場所はNFBには完全になくなってしまった。

 ラーキンをNFBのスタッフに戻そうとする努力は遠慮がちなものであり、ロバート・ヴェラルは、ラーキンにもっと厳しくするべきだったと後悔している。「経営陣や友人たちは努力したのだが、ライアンは自分の道を行くことを決めてしまった。警告文でも読んで、ラーキンはNFBの環境内で働かないといけないと主張すべきだったんだろう。マクラレンにとって十分なことを、ラーキンに対してもするべきだった。」なんにせよ、ラーキンは自由になった。彼はそう思っていた。>4

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