質問作成:土居伸彰、荒井知恵、山村浩二、大山慶
通訳:荒井知恵
翻訳:土居伸彰
土居伸彰
はじめに、アニメーションとの出会いを教えてください。どうしてアニメーションの道を歩もうと思ったのですか。

ヤンノ・ポルドマ
とても小さなとき、私は絵を描くのが好きでした。小さな子供というのは二つのやり方で絵を描きます。一つ目は、理解できるものを描くやり方。見た瞬間に、「これは鳥」、「これは木」……というようにわかるものを描くやり方です。二つ目のやり方として、誰も理解できないようなぐちゃぐちゃとしたものを描くというやり方があります。そういうタイプの子供は、紙の上に描かれた物語をすべて語ります。見る人には何が描いてあるかわからないでしょうが、そこで何が起きているかについて、その子供が語る物語はとても面白い。私自身は後者でした。ぐちゃぐちゃに描いて、何を描いたかを説明する。大きくなってもずっと絵を描いていて、美術の学校に行きたいと思っていました。どうしてそうしなかったのかあまり定かではないですが、たぶん、ドローイング以外にもいろんなことをしていたからで、例えばバンドをやっていたりしました。ギターをやっていましたよ。私の人生にはいろいろなことがあり、とても複雑です。音楽をやったり絵を描いたりする以外にもいろいろあったのです。そうしているうちに、私はソ連の軍隊に入れられました。そこで、偶然の機会で一冊の雑誌を手にしました。そこには、ドローイングのスタジオができるという記事が書いてありました。エストニアにはタリンフィルムというとても大きなスタジオがあって、ドキュメンタリー映画や長編映画を制作していたのですが、そこにドローイングのスタジオができると書いてあったのです。以前から人形アニメーションは制作されていたのですが。私は雑誌で偶然そのニュースを見て、なぜかはわかりませんが、軍隊から戻ってすぐ、タリンフィルムへと向かったのです。
荒井知恵
タリンフィルムが制作していたのは、劇場用ですかテレビ用ですか。
ポルドマ
テレビではないです。テレビはまだソ連では勢力が弱かった。1970年頃のことでしたからね。とにかく、そこでどんな仕事をするのかもわからないまま、私はドローイングのスタジオに行くことに決めました。軍隊から戻ってきて、もちろん自分のドローイングを持参して、スタジオを訪ねました。レイン・ラーマットがスタジオの責任者でした。彼は私の絵を見てくれました。そのとき募集していたのは二つの職で、一つはアニメーター、もうひとつはカメラマンのアシスタントでした。
荒井
後者を選ばれたわけですね。
ポルドマ
そうです。なぜならそのとき、職を得ようとしていた人がもう一人いて、その人はとても良い高校を卒業していて、ラーマットは「彼は良い教育を受けているからアニメーターにしよう」と決めたからです。それで私はカメラマンのアシスタントになりました。ですが私はそうなって良かったと思っていますよ。スタジオ内で一段ずつステップを上がっていき、最終的にすべてができるようになりましたからね。カメラマンのアシスタントをやり、カメラマンになり、アニメーションをやり、脚本を書き、監督もやり……つまりすべてをやったわけで、アニメーションができるプロセスをすべて知ったのです。後になって、こう考えたことがあります。アニメーターは良いアニメーターになる方法しかわからない。原画や中割りを描く方法を知っているが、カメラマンであるとはどういうことかはわからない。カメラマンの仕事は単に撮影するというだけではなく、他の部門とコンタクトをとらなくてはならない。色や明度などいろいろなことを決めなくてはならないからで、とにかく、カメラマンはすべてのことを知っていなければなりません。私は絵を描くのが好きでしたが、もうおそらく二十年も描いていません。私は良い画家ではありませんでしたし。その代わりに脚本を書いたりするわけで、それが今の私の仕事です。
土居
カメラマンや監督、脚本など実に多くの仕事をなさっていますが、エストニアではそれが普通なのでしょうか。
ポルドマ
それは人によりますね。私は自分のスタジオことだけしか話せませんが、私たちのスタジオでは、すべてを自分たちでやっていますし、自分で学ばねばなりません。ウロ・ピッコフやカスパル・ヤンシスなどの若い作家は、アニメーションの教育をきちんと受けています。しかし私たちは、スタジオでの毎日の作業を通じて他の作品から学んでいかねばなりませんでした。
荒井
あなたのようにたくさんの種類の仕事をしている人はたとえば誰がいますか?
ポルドマ
プリート・パルンがそうですね。カメラマンは私ですが、それ以外のことであれば、彼はすべてをこなします。脚本を書き、監督をして、アニメーションの部分もやりますし、すべてのことをこなします。中割りもしますしね。ただし、カメラに関していえば、私しかわかりません。私はかつて人形アニメーションのスタジオでも働いていて、二つの作品を監督しました。その両方の作品で、カメラマンもやりました。カメラマンの仕事を楽しみましたよ。スタジオに座って、みんなの様子を見ているのです。たいていの場合、人形アニメーションの監督はこのようなことはしません。セッティングをしているときには、コーヒーを飲んだりトランプをしたりしているものです。ですが、私は愚かにも、ずっとカメラの後ろに座ってみんなの様子を見ていました。
荒井
そうするのが好きなんですか?
ポルドマ
もちろんです。私は人形アニメーションのスタジオにいるあいだはアニメーターたちを信用していませんでした(笑)。なぜなら、すべてのコマは芸術作品のような配慮を必要とするからです。私にとっては、どのように人形が動かされ、体を動かしていくのかをチェックするのが重要なことでした。カメラマンにズームの指示をするのにも、その方が簡単です。カメラは自分でやっていましたけど(笑)。あなたがたは私の最初の人形アニメーション作品を見ていますか?“Brothers and Sisters”(1991)ですが。
山村浩二
残念ながら、見ていないです。
Brothers and sisters(1991)
ポルドマ
そうですか、あの作品の制作はとても楽しかった。私の計画には二次元と三次元を使うということがありました。ただし三次元はコンピュータによるものではなく、人形によるものです。背景は真っ白にして、人形の顔は、私が医学の本で見つけた病気の人の顔を使いました。ハンディキャップを抱えた人々の歪んだ顔でした。それ以前に制作した人形は面白くありませんでした。だから、私の課題となったのは、人形のアニメーションの次元でいかに印象的で面白いものにできるかということでした。そのために、まずは登場人物の顔を、印象深いものにしてみたのです。私はカメラマンとして撮影も担当しましたが、ソヴィエトの音ネガを使いました。最初は音ネガで撮影し、それからコピーをしてフィルムのネガを作りました。その結果として、とてもコントラストの強い映像ができました。普通のフィルムを利用したら決して得られないようなものです。音ネガはとてもコントラストが強いのです。私はコントラストをとても強く表現したかった。人形の後ろの背景は真っ白になりました。人形の一部も背景にとけ込むほど白くなりました。黒は実に黒くなりました。グラフィック的とても凝ったものになりましたね。撮影されたものが大丈夫であれば、そこに少しだけ緑を加えました。それゆえに、白黒でありながら少しだけ緑がかっています。質問以外のことも答えてしまいましたね(笑)。
『誕生日』(1994)
土居
それでは、ドローイング作品である『誕生日』についてきかせてください。どうして子供の絵を使用したのでしょうか。
ポルドマ
理由はひとつです。子供の絵がとても好きだからです。私の二人の子供は、小さなときにたくさんの絵を描いていました。私も彼らと一緒に描いていました。小さな子供の絵はとても創造的です。ウォルト・ディズニーが誰だとかミッキー・マウスとは何だとかを知ってしまうと、単にコピーをするだけになってしまいます。しかしそれ以前、2歳から5歳くらいのときは、とても豊かで驚くべき絵を描きます。構図もすばらしい。子供たちは芸術の歴史も知りませんし、構図をどう決めるかももちろん知りません。直感的に描くのでしょうね。そんな絵については、感じることしかできない。自分では何をやっているかはわからずとも、手が動いてそれを描いてしまうのです。まさにファンタジーです。もちろん私の子供もとても面白い絵を描きました。なので子供たちの絵を集めはじめました。友人の子供のものもです。ただし、子供の絵をそのまま使ったのはわずかで、少しは修正を加えています。ある子供の描いた絵に、他の子供が描いたものをつけ加えてみたりもしました。子供の絵というのは一つのポジションでしか描かれませんから、振り向かせたり回転させたりしたければ、自分で考えないといけません。ともかく、この作品を制作しているときはとても楽しかったですよ。
山村
物語のアイディアや動きも子供の絵から得たのでしょうか。
ポルドマ
そうです。私にきちんとしたアイディアがあったわけではなく、新しいアイディアは子供の絵を見るたびに生まれてきました。ですが、自分がやるべきことはきちんとわかっていたということは強調しておきます。
『愛の可能性について』(1999)
土居
『愛の可能性について』(1999)では、フェルナンド・ボテロの絵が利用されています。この作品も、物語はボテロの絵から発想されていったのでしょうか。
ポルドマ
いえ、私のアイディアからです。私は自分なりのドローイングのスタイルを持っていましたから、それを使うかも含め、どういうやり方でやるかを最初に考えました。結局、自分の物語を語るのに、ボテロの絵を使うことにしました。ですが、少し変更を加えてもいます。ボテロだけが影響しているわけではありません。ボテロの作品世界は私のものと少し違います。彼の絵はたくさん見ていますし、彼の世界観は好きですが、私のとは少し違います。
荒井
ボテロのなにか特定の作品からインスパイアされていますか?
ポルドマ
もちろんそうですが、それだけではありません。>2
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