ンノ・ポルドマ
社会主義と資本主義のゆるやかな旅  < 1 2 3 >

1895(1995)

土居
『1895』(1995)について質問させてください。プリート・パルンとの共同作品ですが、役割の分担はどのようなものだったのでしょう。

ポルドマ
私の役割は脚本を書くことでした。パルンと共に6つの違う脚本を書きました。一緒にひとつの脚本を書き上げるたび、何日かして読みなおしてみると、あまり良くないと思われてきて、また新しく書き始めました。それが6回続きました。書き直すごとに最終的な7つ目のバージョンに近づいていきました。その後、パルンは一人で7つ目の脚本を書いてきました。ですが、それ以前の脚本は二人で書きましたよ。6つ目を書き終わったあと、プリートはどのような脚本が必要かを確信したようでした。プリートは私に最終稿を渡してくれましたが、とても良い脚本でした。それから、私たちは良い友達ですし、一緒に監督することにしました。その頃のプリートは長いこと外国にいて、フィンランドのヘルシンキで学生たちに教えていました。ですので、私の役割は、アニメーターたちに仕事を割り振ることでした。彼らが何をやらねばならないかを指示しました。もちろん、プリートは何度もスタジオに来て、出来た部分をチェックしていきました。彼のもとに送ってチェックしてもらったこともありました。
もうひとつの仕事は、さまざまな実写映画から、適当なシーンを選び出してくることです。とても有名な実写映画を40ほどの映画を見ました。チャーリー・チャップリンや[ミケランジェロ・]アントニオーニなどを。それらのうちから、どこの部分を使うべきかを考え、最終的にいくつかのシーンを選び出し、それをすべて絵にしました。例えばルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928)の目を切るシーンです。それから、レーニンがスケートをしているシーンをテレビで見つけたのでそれをとってきたり。それも私の役割でした。私が選び、それをプリートに見せる。そして、プリートが「これを使おう」と決めました。そのときプリートはとても忙しかった。フィンランドにいましたから。プリートがタリンに戻ってきたときは、彼が監督です。ですから、私よりもプリートの方が監督だったといえるでしょう。私の役目はプリートをサポートすることでしたから。

山村
実写を利用したというのは……

ポルドマ
私達は権利を買うお金がありません。フェデリコ・フェリーニの『アマルコルド』(1974)のとても有名なシーンも使ったのですが、そこではニーノ・ロータの音楽が流れていました。その音楽を使ってもよかったのですが、お金がかかりすぎます。それゆえに作曲家が作曲してもらったのですが、ニーノ・ロータの音楽ととても似たものを作ってくれましたよ。ですが、オリジナルの曲であることをちゃんと言っておきます。最初に聴いたときは「ニーノ・ロータかな?」と思うでしょうが、オリジナルの曲です。

荒井
見ながら写してしていったのですか。

ポルドマ
いえ、フィルムからコピーをとって……

山村
ロトスコーピングのようなことを……。

ポルドマ
そうです。テレスコープで一部だけを切り取って、作画台の下でフィルムのコピーを映写して、45度の角度にした鏡に反射させてトレースしました。映写するときはコントラストを強くして、トレースしやすくしました。

山村
コマごとのロトスコーピングですか。元の映像とタイミングが同じですが。

ポルドマ
そうです。そういうやり方でつくられたシーンはたくさんあります。ダンスのシーンがあるのですが、それをとったのは……監督の名前を忘れてしまいましたが、たくさんの映画を撮っている人で、オランダ出身の有名な監督です。プリートも彼の映画が好きで、使うことを決めました。少しだけ人物を変えて。動き自体はその監督の作品からとりました。名前が思い出させませんが。彼はオランダに住んでいて、その奥さんは映画批評家で……あなたも『1895』で使われた彼の二つの映画を見たことがあると思うのですが。まあ、いいでしょう(笑)。とにかく、そんなようなトリックを使ったわけです。

土居
資本主義のもとでアニメーションを作るのと、社会主義のもとでアニメーションを作るのでは違いがありますか。

ポルドマ
答えるのは簡単でないですね。私にとっては、資本主義の方が作りやすいです。なぜなら、社会主義時代に私たちのスタジオを仕切っていた人たちは、私にカメラマンだけしかやらせず、監督することなど無理でした。それゆえに、私は人形アニメーションのスタジオに移ったのです。監督として作品を作る機会を得るためにね。それに比べれば、いまは作るのが簡単です。すべてはお金次第です。誰かがそれで利益を出すことができれば、お金を支援してもらうことができますね。エストニアではすばらしいことに政府が資金の獲得にとても協力的で、60パーセントは支援してもらえます。40パーセントは自分たちで見つけないといけませんが。わたしたちはそのために、広告作品や子供用作品を作ったりしています。とにかく、私にとっては資本主義の方が容易です。
ですがこれだけで話は終わりません。映画をつくるというのは簡単なことではありません。山村さんは一人で作品をつくってらっしゃいますね。その場合、アイディアを変えろとは誰も言ってきません。ですが、海外の会社と協力しようと思えば――エストニアの場合ではドイツやフィンランドの会社です――彼らは私がすべきことを指示したがります。私はそれを好みません。いつでも言い争いが起こります。私は彼らの言うことなどきかないようにしています。私の最近の作品、”Lotte from Gadgetville”(2005) の場合、ドイツとフィンランドの会社の人たちと組みましたが、彼らは悪いやつを作品にいれるべきだと言いました。悪いやつがいなければ、作品は面白くならないと言うのです。私は彼らに言いました。善と悪の闘いだとか、人々が争うとか、そんな作品は作りたくない、私はそういった種類の作品が嫌いだ、とね。それゆえ、少し違うやり方で解決を図ろうとします。特に子供たちに向ける作品では。人々が争いあっている作品を、お金もうけのためだけに作りたくありません。映画批評家などは、私たちの作品には悪のヒーローが出てこないから退屈だと言います。私はそういった言葉には耳を貸さず、自分が作りたい作品を作りたいように作ります。ですが、私はエストニアで、監督の力が弱い映画をいくつも見ています。特に長編です。ドイツの会社と作ったものがあったのですが、彼らは監督に内容を変えるように命令しました。プロデューサーは良い物語を作る方法を知らないのに。どうやって投資したお金を回収して利益を出すかということだけしか知らないのです。でも、お金が足りないのであれば、銀行やプロデューサーを頼らねばなりません。
日本でも同じような問題があると思います。4年前、ソウルでのSICAF で、私は審査員をやりました。そのときに、日本と中国と韓国のあいだでアグリーメントがなされ、この三つの国が一緒に制作を始めることになりました。ディズニーみたいな作品です。問題はアニメーション産業にあります。たくさん投資して、たくさんお金を儲けることが目指されます。中国の市場はとても大きいですから、日本にとっても韓国にとってもねらい目なのでしょう。一方で、あるひとつの作品が思い出されます。韓国の作家が”Hummer Boy”(2004)という作品を作りました。主人公の少年はいつもまわりのものを蹴り、傷つけます。ひどい作品です。血が多く流れ、とても暴力的な作品でした。観客はそういう映画を見るのが好きですね。だから常にプロデューサーの問題というわけではないのですけども、やはりほとんどはプロデューサーの問題でしょうね。プロデューサーにとっては、映画とは、たくさんのお金を儲けるための手段でしかない。社会主義と資本主義についていえば、社会主義時代は政治的な抑圧を受けていて、今では経済的な抑圧を受けていると言えるでしょう。
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