ーリー・ノルシュテイン
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 先日長々とレポートをアップしたクロク国際アニメーション映画祭。その全部をわざわざ読まれた奇特な方々の多くの目に止まったのは、ノルシュテイン氏にインタビューをした、ということでしょう。最近はパッタリと来日も止まっているので、恋しく思っている方も多いと思われます。お待たせしました。ユーリー・ノルシュテイン最新インタビューをお届けします。ソ連のアニメーターたちの親密な共同性について、子供向けアニメーションについて、そして、芸術の本質について、三回に分けてお届けします。そのどれもが考え抜かれた、迷いのない言葉ばかりです。(土居伸彰)

インタビュアー:山村浩二、土居伸彰
通訳:イリーナ・ロマノフスカヤ
翻訳・編集:土居伸彰


ユーリー・ノルシュテイン

山村
本日は時間を割いていただきありがとうございます。ノルシュテインさんと再びお目にかかることができて嬉しいです。昨年ノルシュテインさんのスタジオを訪問させていただき、私にとっては非常に貴重な体験でした。その節はどうもありがとうございました。このインタビューは私が運営しているアニメーションを扱ったサイトのものです。まず最初に、あなたにとってのクロクという映画祭、そしてあなたとこの映画祭との関わりについて教えてください。

ノルシュテイン
とても長きにわたるラブストーリーだと言えるでしょう。この映画祭を運営しているのはウクライナの方々ですが、私自身、ウクライナにはたくさんの友人がいます。そのうちの何人かは残念なことに既に亡くなってしまっていますが……私はこのフェスティバルのアイデアが好きなのです。少なくとも、全世界の他のアニメーション映画祭で、船上で、川や海を航海しながら開催されるものを私は知りません。精神的な価値を本当の意味で互いに共有しあっているコミュニティの人々にとって、これは本当に素晴らしい機会です。一緒になって、考えたり、議論したり、そういったことができるわけですから。
 どの映画祭でも、新しい映画や人々と親しくなる機会がありますが、この映画祭には、私にとって、それよりもさらに大事な側面があります。新しい友人たちと話したり交流するのもいいのですが、私にとっては、ソ連時代からの旧友たちとそのような機会を持てることがさらに重要なのです。彼らが今何をしているのか。どんなことを考え、何を作っているのか。ここではそういうことを知ることができます。
 この映画祭は同朋の精神というものをいまだ持ち合わせています。私にとって、それは創造活動において最も重要なものなのです。昨日、私たちはアレクサンドル・ペトロフさんのスタジオを訪問しました。みなで集まり、話をしました。ペトロフさんの奥さんのナターシャさん、非常に気遣いのある彼女とも一緒に飲みました。ロシアでは、アルコールを飲まない限り、どんな活動もイベントも始められません。私が面白く思うのは、この映画祭は他の国では不可能だろうということです。受け入れられないでしょう。私にとってこの映画祭は、新しい映画を観て、旧友や新しい友人たちと交流することのできる、幸せな気持ちになれる機会なのです。
 人々から刺激を受けながらこの船に乗って航海していると、あたかも常に映画を見続けているような気分になってきます。毎日新しい場所を訪れていると、魂のうちに、新しい印象が浮かび上がってくるのです。映画監督でもあり脚本家でもあるゲンナージー・シュパリコフのことを思い出します。彼はかつて、『長く幸せな人生』[注:日本未公開]という映画を作りました。その映画のラストシーンは非常に素晴らしいものでした。大きなバージ船が川を下っている。若い女性がその船の舳先に座り、労働者用の素朴なコートに身を包み、アコーディオンを演奏している。観客が目にするのは、そのバージ船と川岸だけ。あたかも水などないように見える。船は水上ではなく、まるで草花のなかを航海しているような印象を与える。非常に鮮烈なイメージです。私の頭には、映画祭の航海のあいだじゅう、こういったシーンがしばしば飛来してきます。
 実際、このフェスティバルはドラマのように組み立てられています。まるで物語のようではないでしょうか? わたしたちはこの船にやってきて、出会い、7日間のあいだ共に楽しみ、そしてある時点に大盛り上がりのカーニバルがある。この映画祭は完全なる物語です。別れによって終わる物語。終わりが来るのは避けられず、それは悲しいことですが、でも私たちはいつかそれが来ることを知っている……
 山村さんがどのような答えを期待していたのかわかりませんが、これが私の答えです。


インタビューの様子

山村
ありがとうございます。確かにこの映画祭は人生を凝縮した物語のように感じます。いま少し触れられた、あなたの昔ながらのアニメーション作家たちとの関係についてもう少し詳しく知りたく思います。例えば、先日の上映プログラム内のワークショップにおいてヒトルークさんの作品について言及なさっていました。ロシアにはアニメーション作家同士の強いつながりがあって、それは作品同士のつながりというかたちにも現れているように思います。ロシアのアニメーションの伝統とは何だと思いますか。

ノルシュテイン
そのことについては、短い言葉で語るのは非常に難しいですね。なぜなら、とても細くて微妙なつながりというものが多くありますから。私たちは、他の国々のアニメーション作家たちや作品から切り離されたところにいました。もちろん、働いていたのはロシア人とだけではなく、ソ連全体の人々とでしたが。「ロシアの」アニメーションと今では習慣的に言われるようになっていますが、これは「ソ連の」アニメーションの一派なのだと私はいつも強調しています。私が思うに、ソ連のアニメーションは今でも存在しつづけており、「ロシアの」アニメーションにまだ完全には移行しきっていないのではないでしょうか。
 当時、すべてのアニメーションは連邦政府から助成を受けており、それが唯一絶対の資金源でした。どこからどのようにしてお金を得ようか、というような問題に拘うことはなかったわけです。資金は確かに限られていました。しかし、適切に振り分けられていました。この事実から、私たちがかつて基礎としていた、非常に重要な原理というものが見えてきます。すなわち、集団主義の原理です。私たちは巨大な共同体のなかで働いていたのであり、その側面を無視してはなりません。この集団のなかから、ときおり、非常に卓越した監督たちが出てきました。たとえば、レフ・アタマーノフ(彼の美しい作品については、山村さんもご存知でしょう)。イワン・イワノフ=ワノ。ウラジーミル・ポルコーフニコフ(この名前はそれほど多く言及されることはないのですが、素晴らしい監督でした)。そして、フョードル・ヒトルークです。ヒトルークは今に至る構造を作り上げた、最後の一撃でした。
 今では私たちは、ソ連について非常にネガティブなかたちで語ります。しかし、それは公平な見方ではないと思います。今、多くの人々は、スターリンの粛正や芸術家への抑圧についてしか語ろうとしません。もちろんそういったものは存在していました。でも、それは完全に異なる根っこを持つ別の話なのであり、社会主義とは何も関係ないのです。
 巨大な共同体に登場した、卓越した監督たちについての話に戻りましょう。そこから登場したヒトルークはアニメーションを変えました。彼によって、アニメーションはまったく違うものになったのです。ヒトルークは何人もの監督に影響を受けていましたし、同時に、多くの監督に巨大な影響を与えもしました。相互的で内的な、様々な影響が働いたわけです。こういったことが可能になるのは、人々があのような巨大な共同体において働いていたからなのです。
 私は多くの国で教えてきました。日本、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、ハンガリー、イギリス……どの国でも学生たちが完全に孤立し孤独であることに、私は恐怖を覚えました。彼らは一人で作業をしています。おそらくそれゆえに、彼らの作品には孤独で感傷的なところが多くあるのではないのでしょうか。ソ連時代には、人々は巨大な共同体の中で働いていました。一つのスタジオのなかに、とても多くの人間がいたのです。制作の方法論もまた、共同制作のアプローチに基づくものでした。他の国の雰囲気とはまったく違います。作品の雰囲気だって、まったく異なるものとなります。
 ソ連時代の制作方法を理想化しようとしているのではありません。アニメーション制作に対する自分の視点というものを勝ち取る必要があったのは確かなのですから。それはとても困難な作業でした。簡単なことではありませんでした。しかしそれは、ある人物が芸術家であるならば、結局のところなされねばならないことでもあるのです。私たちは集団的なアプローチと集団的な方法論を採用していましたが、それにも関わらず、ソビエトのアニメーションをパノラマで見渡してみると、そこにはたくさんの突出した個人の監督の存在を、作品や創作活動において自分自身の特徴を持った人々の存在を見いだすことができるでしょう。
 芸術家が自分のアイデアを守り自らが正しいということを証明せねばならない場合、その機会は芸術家自身にとって非常に有益です。なぜなら、芸術家はそのために、自分が何をしているのか、実際には何を言いたいのか、理解しようとしはじめるからです。抵抗することを強いられ、そういった抵抗の気持ちを感じたときに、芸術家のアイデアや考えは洗練されていきます。
 社会主義下の状況を理想化しようとしているのではないことを再び強調しておきたいと思います。なぜなら、こういったことが可能になるのは、政治的な抑圧が存在しないときに限ったことなのであり、そのような抑圧が存在しなかったことなど滅多になかったからです。ただし、実際に政治的な抑圧があったときにも、自らの見方を守り通すことが必要だったことは確かです。そうすることで、芸術家自身にとって望ましい状況を作り出すこともできるわけですし。
 今日、制作のための技術的な手段は大きく変わりました。コンピュータの前に一人たたずみ、自分ですべてをやってしまうことが、文字通りに可能となったわけです。多くの人々が、いつか、作家が小説を描くように、画家が絵を描くように、一人でアニメーション映画を作ることが可能になるときがやってくると夢見ています。
 しかし私はそれに異を唱えたいのです。かつて、私たちのスタジオには芸術委員会がありました。芸術委員会は、制作をフォローする役割を持っていました。たとえば、10分間のアニメーションが6ヶ月から7ヶ月で制作されるとすれば、たいていの場合、芸術委員会は5回か6回開催され、何の作業がなされているかをチェックします。撮影された素材やスケッチを観たり、音楽を聴いたりして、議論するのです。委員会のそれぞれのメンバーは、観たもの、聴いたものにたいして自分の意見を述べていきます。その意見はどれもかなり異なっていました。みなそれぞれ異なる趣味を持ち、異なる知性の水準にあり、異なる性格をしていたからです。こういった議論や委員会のメンバーの判断は、作家にとって、自分が何をしようとしているかをさらによく理解するのを助けるという点において非常に役立つものでした。そこで述べられた意見や提案が、後になって良いアドバイスだと判断されたことや、作品のなかに実際に採用されたことさえ、多くありました。
 だからこそ、私の見方からすると、ソ連のアニメーション界での経験はまったくのネガティブなものであったとは捉えられないわけです。心理学的な側面から見ても、こういったやり方が、当時の作家たちの作業を容易なものにしたことは間違いないと私は思っています。このことについては何時間でも議論できるでしょう。「自由」というものをどう理解するか、という話なのかもしれません
 この質問に対する答えは、終わりのないものになりそうです…… >2


○関連書籍・DVD情報
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 →ソ連時代のアニメーション作家のたちの(感動さえおぼえるほどの)親密な関係性については、邦訳が出たばかりのこの本を読むとよくわかります。
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