
ユーリー・ノルシュテイン
土居
私がそもそもあなたの作品を理解するためにエイゼンシュテインの芸術理論について最近研究しているということもあり、三点ほど質問したいことがあります。ひとつはエイゼンシュテインの理論についてのお考え、二つ目はあなたとエイゼンシュテインの創造に対する態度、三つ目はアニメーションの本質について、です。
ノルシュテイン
最後の質問については、子供向けのアニメーションに対する私の理解と態度についてお話ししたとき、私はもうすでにお答えしています。結局のところ、大人向けのアニメーションについても同じことが言えるのです。同じ原則、同じ価値観が存在しています。この意味においては、少なくとも私にとっては、アニメーションはその可能性や機会というものを使い果たしていません。
芸術は発達しません。技術的な面を除いては。世界の発達の全体の歴史を見渡してみても、それはわかると思います。芸術はその時期ごとに、自らを常に発見していくのです。芸術がまだ芸術とは呼ばれないような時期であってもそうなのです。
前史時代の人々にとって、芸術とは何だったでしょうか。彼らにとっての芸術ということについて、私はそれを、人々がその助けを借りて自らを世界のうちに、自分を取り巻く自然のうちに位置づけるプロセスであったと理解しています。原始人が例えば岩の上に記号のようなものを描いたとして、彼らはそのイメージによって、自分たちから離れたところに、つまりその精神の外側に、自分自身の知覚像を作り出そうとしていたのです。
書き言葉、文字についても同じプロセスがあったと言えるでしょう。人間は他者とコミュニケートするための客観的なシステムを作りだします。言語や語彙の発展、そういったものについても同じことがいえます。辞書だって芸術の一形態です。物事を表現するための芸術(技法)なのです。ただし、違ったかたちではありますが。
原始人や先史時代の人々がイメージを描き出していたとき、彼らは同時に語彙や記号といったものも作りだしており、その助けを借りて自分自身について記述してきました。文字を発明しなかった国や地域もいくつもありますが、そこでは人々は記号を用いて互いにコミュニケーションをとっていました。20世紀になって、膨大な量の洞窟壁画が発見され、驚かれました。狩りの光景や幸せそうな光景、そんなようなものが描かれていました。それだって、人間の様々な側面を表現するためのコミュニケートの方法なのです。こういった絵画的イメージを用いることで、人類はなんとかして自らを宇宙の構造のうちに位置づけようとしていました。抽象的な観点から、非常に高い位置から見渡してみれば、同じようなことがどこでも起こっていたことがわかります。絵画、宗教芸術、イコン画……あらゆる芸術の形式によって、人々は自分を宇宙のうちに位置づけようとしていたのです。
そうなると、問題となるのは、その世界の構築のために用いられた哲学がどのような種類のものであったか、ということになります。原始人にも哲学があり、発達した人間にも哲学があります。イタリアのルネッサンスは、宇宙のうちの人間の位置づけを理解しようとした試みが爆発的に起こった時期のひとつです。イタリア・ルネッサンスの200年のあいだに、どれだけ多くの芸術家が突如として現れたことか。そこでは、生の喜びや幸せといった哲学が優勢でした。このことは非常に重要です。この哲学は、みなが世界の終末を待ち望んでいた中世の時代の哲学とは異なるでしょう。この時代、孤立した場所に暮らしていたロシア僧がもしルネッサンスの哲学を知ったとすれば、きっと恐怖を覚えたことでしょう。
しかし違いはあれども、どちらも宇宙を哲学的に知覚しようとする試みです。どの角度からそれを考えるか? その時代に適した認識とはどのようなものなのか? レオナルド・ダ・ヴィンチが地獄を描いた見方というものがたとえばありました。もし彼がいなければ、今日の世界はどうなっていたでしょうか。ダ・ヴィンチは非常に好奇心の強い人間で、世界や宇宙に対する彼の好奇心は、現代の力学の基礎を発展させました。もしあの時代に解剖が禁止されていなかったなら、医学は現在さらに進歩していたことでしょう。
現在、ロシアに限らず全世界で、生に対する哲学・宇宙に対する哲学的な見方というのが失われていると私が考えていることを強調しておきたいと思います。こんにち、人々は芸術に対してそれほど興味を持っていません。私は、それはかなりの程度、資本主義の発展によるものだと考えます。最終的には、ある人間が他の人間を信じられないくらいに辱めるような事態が起こるようになるのではないでしょうか。こうした状況に対して、私が思うに、芸術は非常に重要な役割を果たすことを定められていると思います。アニメーションを含む芸術のあらゆる形態に関わる芸術家たちがもし世界の認識に対する哲学的な態度と自分とに何の関わりを持たせることができないとすれば、その芸術はわずかな価値しかもたないでしょう。
エイゼンシュテインに関するあなたの質問に戻りたいと思います。こういったことこそが、彼が行おうとしたことなのです。パズルの小さな断片をすべて集めて、創造を駆り立て動かす共通の根、共通の基礎を見いだそうとしたのです。どうして創造活動というものが出現したのか。なぜ私たちはそれを必要とするのか。芸術家の創造的活動の本質とは何なのか。これこそがエイゼンシテインが芸術の哲学の発展において成し遂げた根本的な達成です。非常に長い答えになってしまいました。
 ユーリー・ノルシュテイン
土居
もうひとつだけ質問させてください。ロシア語の「ペレ」「ザ」という接頭辞についてです。共に境界を越える、という運動性を表すものですが、この両方は、あなたにとってもエイゼンシュテインにとって非常に重要なものだと思います。例えば、あなたがいうところの「追体験」ということがあります。そしてエイゼンシュテインは例えば「ペレズバニーチ」ということを言っています。観客と作品とが「響き合う」という状態です。
ノルシュテイン
「追体験」は、芸術にとって最も重要で本質的な要素です。それは、情動を共にすること、スクリーン上で起こっていることすべてと観客の情動とをむすびつけることです。日本での講義で何度も話題にしています。追体験――スクリーン上で起こっていることを共に生きること――は、芸術において最も重要なことだからです。
ある人が戦争で戦い、その戦闘のせいで自分が死ぬかもしれないと理解したとき、それもまた追体験であり、仮[の追体験による]の情動的な状態です。その戦闘に参加するその人物がおかれた状況を分析してみれば、そこで起こるドラマのあらゆる段階について、吟味することができるでしょう。ドラマのあらゆるスケールでの微妙な陰影、情動、その発展を微細に考えることができるでしょう。まず最初に戦闘への準備があり、戦闘に突入し、最高潮に達して、もしその人が死にもせず怪我もなかったのならば、戦闘の終結によって喜びを得るでしょう。もし芸術が本物の芸術であるとすれば、その小説や映画を鑑賞する人間は、そこで辿られるドラマの各段階を同じように体験します。
ドラマの追体験が可能な芸術の最もわかりやすい例はドストエフスキーです、彼は自分の小説の読者を、彼自身が体験したあらゆる段階へと送り込むからです。『罪と罰』で主人公が立てた主要な問い――「自分は何者なのか」「自分はぶるぶると震え続ける生き物なのか、それとも何からの権利をもった人間なのか」――を思い出してみてください。主人公はこの前提をもとにドラマを演じます。ドストエフスキーは、運命のいたずらに翻弄されるような状況に彼を置きます。彼には二つの選択肢かありません。ぶるぶると震える生物でいつづけるか、それとも、自らの権利を公使して、そうした人間に何が起こるかを確かめるか。かくして主人公は老婆を殺し……となるわけです。この小説はあまりに力強いので、読者はその一部となり、その衝撃を追体験します。
創造者、芸術家、監督……そういった人たちが、あらゆる状況を追体験しうる可能性を与えるような作品を作るのであれば、人々はそこに成長の可能性を得ることができます。現実にではなく、芸術の形式の内部において、さまざまな情動を追体験することができるのですから。
問題なのは、今では観客や読者が芸術を完全には信じていないということです。芸術は遊びのレベルに、慰みのレベルに留められています。芸術に完全に巻き込まれてしまうのを拒否しているのです。これは教育の問題です。教育以外には、このことに対してはどう対処することもできません。教育、しつけ、適切な理解、そういったものが、人々に芸術を近くに感じさせ、自分自身を芸術作品の一部として、追体験という素晴らしい感情を体験する機会を与えます。
芸術体験、芸術の価値について話すのであれば、実際のところ、芸術は、人々が遅かれ早かれ直面するような問題に、芸術的な小説や映画の形式のなかで直面させることができます。実際の人生で同じようなことに出会うのです。小説や映画で提示されたものを、実生活において追体験するのです。私が芸術を心から賞賛しようと思っているのではないことは言っておかねばなりません。なぜなら、芸術は人々にとって安全な楽園をも簡単に作りうるからです。不幸なことに、人々は今そのことを認識しようとしません。芸術を信じたくないのです。芸術が彼らの心に深く触れ、その一部となることを許さないのです。
山村
どうもありがとうございます。最後に、おそらく新作について訊かれるのは好きではないと思うのですが……
ノルシュテイン
いいえ、好きですよ(笑)。
山村
(笑)今、どのような状況なのか非常に興味があります。最近は何をされていますか。
ノルシュテイン
この18ヶ月間ほど、私の生活のほとんどは、本に費やされていました。ようやく出版された本です。一年半、完全にこの本にかかりっきりだったわけです。この本は日本とモスクワで行った講演を基にしているわけですので、近年の私の生活がどれだけこの本に費やされているかはおわかりでしょう。
今の私の唯一の願いは、スタジオに戻り、作業室にこもり、ドアに「邪魔しないで。起きてるから」という看板を掛けておくことです。もしくは、「すぐに戻ります」とか。ヴィンニー・プーフ[訳注:ロシア版「くまのプーさん」。ヒトルークが監督し、今でもロシアで非常に人気が高い。]みたいに、スペルを間違えて書いてしまったりするかもしれませんけど(笑)。
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