イアン・ラーキンと『ライアン』
Animations座談会2(前編) < 1 2 3 >

 2007年2月14日、ライアン・ラーキンが亡くなった。あまりに鮮烈であまりにオリジナリティーに溢れた『ウォーキング』(1969)と『ストリート・ミュージック』(1972)を残してアニメーション界の表舞台から消えていったラーキン。NFBを追放され、放浪を続けながら、路上生活と福祉施設での保護によって暮らしてきた彼は、アニメーションによるドキュメンタリー『ライアン』(2004)によって再び発見され、この作品はアカデミー賞まで受賞した。ラーキン自身もMTV CANADAのアイキャッチでアニメーション制作を再開し、路上生活での経験に基づいた”Spare Change”(小銭を)と題された新作の制作に取りかかっていた。日本ではほぼ無視されていると言っていいラーキンに対する追悼の意味もこめ、今回の座談会は企画された。
 紛うことなき「正統な」アニメーション作家であるライアン・ラーキンと、彼を題材としたクリス・ランドレスの『ライアン』、そして『ライアン』及びライアン・ラーキンをテーマにしたドキュメンタリー"Alter Egos"(2004)を話題の中心とした今回の座談会は、ラーキン作品における「正統性」がどこにあるかについてのみならず、アニメーションにおける3DCG作品の是非にまで話の及ぶ長時間にわたる熱のこもったものとなった。二回にわけて掲載するうちの前編である今回は、主に『ライアン』を中心とした3DCG作品の是非を問うものである。(土居伸彰)

出席:山村浩二、荒井知恵、大山 慶、和田 淳、中田彩郁、イラン・グェン、土居伸彰


(前編)

イアン』と3DCGアニメーション


Ryan (2004) - Chris Landreth. Copper Heart Entertainment / NFB





Gはシミュレートする

大山慶
作品『ライアン』の方ですけど、3Dをワシャッとつぶしたりだとか、結局どういう意味なんですか?

土居伸彰
内的な痛みを形にしているんですよ。

山村浩二
髪の毛が絡み付いたりするのは、自分で自分を苦しめているみたいなことなのかな。彼
[『ライアン』の監督クリス・ランドレス]の意図はね。

中田彩郁
後付けっぽいですよね。すごく見苦しいっていうか。

山村
本心は、CGの技術的な進歩を見せたくて。髪の毛だったりとか。
[ランドレスは、]『ジ・エンド』(1995)からそれは一貫していて、たまたまライアン・ラーキンという題材を見つけたと。僕はそう考えているのだけど。

荒井知恵
クリスさんがああいうものをイメージしたのではなくて……

山村
いや、実際にイメージしたんだと思うけど。

イラン・グェン
発想としては優れているとは思えないですけど。わかりやすいだけで。

山村
『ビンゴ』(1998)でキャラクターが大きく変形するこけおどしと同じものかなと。

土居
ランドレスの作品は、すべてメタファーでしか表現していなくて、「内的なものを表現します」みたいに言葉で発想したことを絵に描いちゃうみたいなことばかりやってますね。

山村
今日はラーキン作品を中心にした座談会にしようと思ったんだけど、ちょうどCGの作家とドローイングの作家との間の違いというか、CGの可能性っていう話もできるかなと思って。とりあえずこの二人の作家を題材として、いろいろ話をしていきたいと思うんだけど。メタファーでしかものが考えられないってのは、まさにCGの弱さがモロに出てるところなのかなと。

土居
レフ・マノヴィッチが言うには、CGが発展したのは軍事産業とエンターテインメント産業で、エンターテインメントの分野だと『スター・ウォーズ』とかでリアルさを追求するために発展していった。軍事産業だとフライト・シミュレーターとか。だからまさにシミュレートするものとして発展してったっていうのがあって。

山村
だからあくまでシミュレートなんだよね。CGは何を定着させようとするものでないというところが、ドローイングとの明らかな違いで、ラーキンの場合は、街のスケッチってところから始まって、筆跡を残していこうとする行為だと思うんだけど、CGってのはまったくどこまで行っても架空のものでしかなくて、その人自身の筆跡じゃないんだよね。だから心情などにはなりえないんじゃないかなと思って。それだとやはり、頭を使って考えて、提示するだけ。トラウマっていうアイディアが出てきたら、それをシミュレートするだけ。その人のトラウマそれ自身ではない。

土居
“Alter Egos”(2004)
[『ライアン』についてのドキュメンタリー作品]の中で、ラーキンが3D作品について自分の作品と関連させて語っていて、「自分のやっていたようなことは、今なら3Dで簡単にできるんだけどね」って言っていて。

山村
「洗練された形で」って言ってるけど……

土居
それは違うんですよね。

山村
彼は3Dの創作の事情も、あまり理解してなくて、すごく表面的にしか捉えてないからああいう発言をしちゃったんだろうと思うんだけど。

土居
ラーキンが、「自分がやっているのは彫刻に近い」と言っているのが、なんでだろうと思ったんですけど。

山村
僕はそれはすごく理解できた。スケッチやドローイングを描いて、それがアニメーションにまで発展していくと、彫刻って感覚がすごくある。立体のアニメーションでもそうなんだけど、映像におさめるためには、ライティングをしたりとか、イメージをどう定着するかというので、すごく探っていくというのが創作の過程であるわけ。ドローイングでもそうで、紙の中の線の位置で空間が生まれてくるんで、なにかを彫りだそうという感じがあるから、彫刻というのは作っている側の実感としてはすごくわかる。

中田
質問なんですけど、ラーキン自身の作品は、テーマ性や物語を重視しているのではなく、アニメーション自体が面白いということじゃないですか。一方でドキュメンタリー
[『ライアン』]の方は、実際はテーマ性とかどうでもよくて、3D上の面白い表現を探るということだとすれば、二つは[追求という点で]同じものなんですか?

山村
3Dの方は、表現を探るのではなくて、表現できる方法を探るということだよね。髪の毛をこうなびかせるとか、それをやるための技術を探るということじゃないですか。トラウマの表現が必要で、そのために髪のなびきが必要で……という手順であって、追求しているようには思えない。

イラン
[『ライアン』で]髪の毛のなびきが一番はっきりと表現されるのは、若きライアンが、[他のキャラクターのようにいびつに表現されるのではなく]完全なる形でモデリングされるところですね。[“Alter Egos”でのクリス・ランドレスの]モナコの講演の映像からもわかるように、元の映像があって、そこから削り取る形をとっているわけですよ。トラウマに苛まれた表現するために。

山村
さっきの質問だけど、ラーキンがアニメーションの面白さを追求しようとしているのと、CGをやっている人たちが技術の追求としてやっていることの追求は、どちらも同じことではないかということだったと思うんだけど……

イラン
これは以前土居さんにきかれたことだと思うんだけど、「
[ラーキン作品と『ライアン』を]どうして比較できるのか」と。比較できる理由の一つになるのは、ランドレス自身が[『ライアン』の冒頭で]言っていることですよね。自ら比較しているわけですよ。「ライアンは私と同じように、映画監督であり、アニメータである。」と言ってるわけですよね。それが、実際に作品を見ていくうえで、どれだけ同じなのか、100%納得はできないのですけれども。先ほどのシミュレーションという話がでましたけど、昔ならロトスコープ、今ならモーション・キャプチャーがあるわけですけど、そういったものは、現実の動きがすべてと考えていて、それが超えられないような最終的な目標になる。


ニメーション、CG、実写

山村
ちょっと外れた話になるわけだけど、CGの定義をここでしておきたい。僕は、映像の種類を、アニメーションと実写とCGとの三つに分けるべきだと思っていて。当然、今コンピュータの技術が進んで、映像だけでなくて、編集やサウンドのプロダクション行程にもデジタルの要素が入ってきちゃうから、どこまでCG に含めていいのか、非常に微妙な話になってくるのだけども、「映像の動きの創造」という視点で、この三つに分けられると思っていて、フレーム単位で、明らかに別々のドローイングや写真を置き換えるもの――そのイメージがコンピュータで作り出されても、実景でもいいのだけれども――どんなものでもいいからとにかくフレーム単位で置き換えることで動きを生み出すのがアニメーションなのであって、現実からとった動きは、その表面上がモーション・キャプチャーであってもロトスコープでドローイングになっていたとしても、実写だと思います。CGというのは、コンピュータのプログラム上で動きをシミュレートするもの。

イラン
この場合、CGの定義というのは、計算による動きということですね。

山村
コンピュータ上の数値で出される動きです。

イラン
それが一番違うわけですよね。コマ撮りでつくられたものと、計算でつくられたものは、根本的に違うと。

大山
ピクサーのCGっていうのはどのくらい……

山村
かなりアニメーターがつけてるよね。手で。だから、すごくアニメーションに近い、カートゥーンに近い感覚で見れる。

荒井
計算だけれども、コマごとの操作もされていると。

山村
アニメーターではできないようなところはCGでやっているわけだけども、体の大きなアクションなどはアニメーターがつけているから、動きのベースは、カートゥーンと同じ感覚。もちろん技術はどんどん進んでいるだろうし、その最前線がどこまで行っているかわからないのだけれども。アニメーター的な動きも、プログラムできるようになってくるのかもしれないけどね(笑)。

土居
そうなると、きっちりと見分けられるのかどうか……

山村
ちょっとした動きならわからないよねえ。手で動かしたのか、コンピュータなのか。でもとりあえず僕は動きをつくるやり方として、三つに分けていて、それだと混乱がない。


ーキン作品はアニメーション表現のコアである

土居
ラーキンの作品って、特に『ウォーキング』と『ストリート・ミュージック』は、完全にキャラクター・アニメーションではない。キャラクターの同一性というのが、確固たるものとして保たれない。キャラクター・アニメーションについてはディズニーがそれを確立したと言えることもあって、つまり、『白雪姫』(1937)で白雪姫の死に対して観客を泣かせてしまうというのは、「命が終わってしまった」ということを観客が感じたのであり、つまり、「命を持っているキャラクターがいた」というキャラクターとしての同一性を確立した。でも実際には、アニメーションは、一コマずつ置き換えていくわけで、そのキャラクターの同一性なんてものは保たれるはずがない。だから、ディズニーの本……

イラン
“Illusion of life”
(『生命を吹き込む魔法この本の情報はこちら

土居
……ってなってますけど、たぶん、アニメーションの本質ってのは、illusion of lifeではなくて、illusion of movementの方で、illusion of lifeが成立する分野っていうのは、アニメーションのなかの狭い一分野、キャラクター・アニメーションという一分野でしかないと僕は思うんですよね。

山村
そういう意味で、ライアン・ラーキンの作品は幅が広い。

土居
アニメーションの根源というのを、体現している作品だと思うんですよね。だから、「何が動くか」っていう「何」の部分は重要ではなくて、「どう」動くかっていうものが重要。山村さんが『ウォーキング』について、「人の動きが次第に抽象化されていって動きだけが前面に出てくる」って言っていたのは
[編集部注:対談の後編を参照のこと]、すごく大事なことで。ノーマン・マクラレンも、「自分の作品では、何が動くかは重要ではないんだ、どう動くかが大事なんだ」って言っていて。その点で、マクラレンとラーキンはきっちりつながるし、二人は、アニメーションの本質ってものをきっちり捉えている作家なのではないかなあと僕は思います。


Gにクリエイティビティーは働くか?

山村
僕がアニメーションで面白いと思うのは、いわゆる「感性」の部分がすごく表出しやすいこと。CGだと、やはり、アイディアの方、頭で考える観念的なものを形にするしかなくて、限界がある。でもアニメーションの場合は、「こういう感じ」っていうものをダイレクトに出せる。コマ撮りっていう、一見遠回しな方法でだけど。ライアン・ラーキンも、
[“Alter Egos”で]「昔の僧侶みたいに」って言ってたけど(笑)。

イラン
「13世紀の僧侶」ね(笑)。

山村
修行僧みたいに感じることは自分もやっててよくあるから、あの言葉に共感したんだけど(笑)。修行の様な作業の中、たぶん宗教家が言う「瞑想」に近い精神状態で物作りに集中する瞬間がある。その時自分の感覚とか内面がきっちり形になっていくというのがアニメーション作りの面白さとしてある。

イラン
それもCGと比較できますね。コマ撮りは、一見遠回りだけど(実はそれが大事なわけなんですが)、とにかくラーキンの作品を見る限りでは、遠回りであることを全然感じないわけですよ。ほんとにストレートに、自然に受けとめることができるわけです。3Dは、例えば『ライアン』という作品は、「こんなに頑張ってます」という苦労の側面を意識させてしまう映像になっているのです。

土居
それにたぶん、観念から作り出す方が楽ですよね。

山村
『ライアン』みたいに、共同作業の中で、「そこは違うよ」とか指示をだしてつくっていく方が楽だよね。でも、僕は、そういうところではなかなかクリエイティビティーというのは働かないと思う。

イラン
もう一つ、こういう話もどうかとは思うけれども、[“Alter Egos”で]出ていたから敢えて話題にします:『ライアン』の予算のことです。100万ドルという予算がついていたと。あれも、特に短編アニメーションだということを考えるとちょっと驚きで。あの作品は20分くらい?

土居
13分
[54秒]ですね。

イラン
13分!?……ちょっとそれはありえないくらいですね。やっぱり、違う世界ですね。やはり、大人数で作るものになる。

山村
やっぱり、CGの技術の活性化という目的で、産業的な目的があるから。先に言っちゃうけど、僕がCGの限界ということで考えているのは、CGはオペレートだけをするのであって、クリエートができないということなんだよね。ダイレクトに素材にさわれない。ボタンを押したり数値を操作したりするしかなくて、マウスを使ったり、タブレットを使ったとしても、それが数値に置き換えられないといけない。それはクリエイションにはなりようがなくて、その数値が仮想現実ではなくて、現実の世界と同じ大きさをもつものであったらなりようもあると思うんだけど、そうなるともう一個同じ大きさの宇宙ができてしまうという話になって(笑)、その仮想現実がこの宇宙を覆い尽くしてしまわない限り、それはリアルにはならない。だから、自分たちの精神に入ってくることは絶対にないと僕は信じちゃってるのだけど。「そうじゃない」って言ってくれる技術の方もいるかもしれないけど、作る側としては、限界があると思う。オペレートして、数値化して簡略化された画面におさめるってことしかできないから。あくまで操作しているだけ。軌跡を残すものではなくて、ものすごく虚しいものだと思うんだよね。

荒井
CGでクリエーションしたい、っていう人がいますよね。小さい頃からそういうCG作品を見てくるからそう思うんだと思うのですけれども。

山村
いますよね。そういう学校がたくさんあって、今、世の中の動きとしてはそういう方向に移ってきているし、昔ピクサーのアニメーターの人とブラジルで会ったとき、やっぱり彼も小さな頃にピクサー関連のCGを見ていて、CGアニメーションってすごい!アニメーターになりたい!と思ったという話をしていたんだけど、やはりそういう影響で、CGをやりたいって人もいっぱいいる。

荒井
そういう(クリエーションとオペレーションの間にある)絶対的な溝の部分、CGをやる人たちはそれに気づいて、方向性を変えたり、溝を埋めようとしたりするんでしょうか。

山村
みんな行き詰まるんじゃないですかね。あくまでも、産業としてのアニメーション、エンターテインメントの方でしか可能性がないんじゃないかな。でも、やり方はあると思う。実験的なことをやるために、CGを道具として使う可能性があると思ってて。僕は面白いと思うCG作品は3本ぐらいしかなくて、そのうちの一つが、大井文雄さんが最近作った自主作品『dream storage』(2006)。偶然性に頼っているんだよね。数値の計算の部分で。偶然性が偶然性を呼ぶような状況をつくりだして、画面の動きや抽象的な模様が動くんだけど、それをみたとき、CGの人工的な画面が、「きれいだ」と思ったんですよ。CGなのに、人為的なものが入らないやり方で作っていたということがそのあとわかって。そういう可能性というのは、CGにもあると思う。でも、クリス・ランドレスがやっているような、あくまで観念上の道具でしかないCGというのは、どうにもできないと思う。ラーキンの作品を見たら、映像の空間がいかに自由な広がりを持っているかすごく感じると思うんだけど、『ライアン』の1億円もかけたCGの映像をみても、まったく狭苦しい世界しかできていなくて、地平線があって、その中の3D空間にたたずんでいるものでしかない。そこは絶対に突き崩せなくて、さらにCGとしても中途半端な所も目につく。最初のランドレスの登場シーンの歩き方も、まったく板についてなくて、重力も感じさせない歩きなんだよね。重力も、ほんとうはきっちりコンピュータで計算できるはずなんだけど、現実の施設にやってきたっていう設定なのに、歩きの重力感がまったくできていない。アニメーションとしても、『ライアン』は質の低い部分がかなりある。


dream storage (2006) Fumio Ohi

土居
ラーキンは背景さえも取っ払ってしまっていますね。それが広さを感じさせる。3DCG作品は全体としてある種の「狭さ」を感じさせるものが多いですよね。

山村
全部こういう網目
[モデリングのグリッド]がある中で作っているなあっていう広がりしかなくて。

土居
インスピレーションのもとになっているものも、ファンタジックなものであったりゲーム的なものであったり。定型表現が集まっているデータベースからひょいひょいととってきたような。しかもそういうこと自体をあまり意識してないんじゃないかなあと思えるんですよね。
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