『イアン』は評価しうる作品なのか?
土居
僕は『ライアン』をある程度評価しているのですが、言葉で考えて観念的に作るやり方ってのを、意識的に、ある程度のレベルまでしっかりやっているからなんですが。それで、なんで『ライアン』とラーキンを比べられないと僕が考えるかというと、立っている土壌が違うからなんですよ。先ほどもイランさんが言ったように、[『ライアン』の冒頭でランドレスが]”Like me”って言うから『ライアン』の場合ややこしいんですが。ランドレスが『ライアン』でやったのは、「ライアン・ラーキンみたいなことを自分もやってみたいけどできない」っていうことを意識した上で、ライアン・ラーキンの創作方法をシミュレートして、メタファーとして使ってみたり、言葉の次元からやるぞ、本人にはかなわないけど……っていうのを意識的にやっていて、言葉はわるいですが、凡人なりのやり方っていうか。
イラン
『ライアン』はランドレスのアニメーション作品の中では、前の二作品[『ジ・エンド』『ビンゴ』]に比べたら到達点なんだけど。[『ライアン』は]アニメーテッド・ドキュメンタリーって言っているわけですよ。で、アニメーテッド・ドキュメンタリーって何かっていうのは非常に興味深いテーマなわけで、今年のアヌシーでも、アニメーションでドキュメンタリーとはどういうことかっていう特集を組むわけですけれど。まあ確かに、凡人なりの懸命さってのは買いますけれど、山村さんが以前おっしゃっていた言葉で、まさにぴったりの言葉なんですけど、その姿勢から生まれる倫理的反感がある。あえて自分を登場させて、あの作品全体が結局は自己愛ですよ。「ラーキンは僕にとってのヒーローの一人だ」と言っていながら、言葉は悪いですが、ライアン・ラーキンという人物自体、ランドレスの作品のための材料、ダシにすぎないわけです。
山村
そこが確かに見ていてつらいし、あまりいい気持ちのしないフィルム。ただ、唯一功績があるとすれば、ライアン・ラーキンの作品を知らない人への紹介にはなったということ。『ライアン』というCGアニメーション自体が評価できるものでは決してなくて、もう一つあの作品で嫌なのは、ライアンを描いてなくて、あれはやっぱりランドレスが自分を描きたいんだよね。なぜかっていうと、CGのキャラクターの中でランドレスだけがハンサムに描かれている(一同笑)。完全にこれはナルシストの描写なんだよね。自分の過去を語るとかもそうだし。
Ryan (2004) - Chris Landreth. © Copper Heart Entertainment / NFB
イラン
ドキュメンタリーって言う以上は、自分の悩みとかトラウマとか、そういうことを登場させる必要はまったくないわけですよね。むしろそれは邪魔にしかならない。
山村
ラーキンに本当に敬意を持っているのであれば、やっぱり自分は登場させられないよ。
イラン
記録映画というものの対象にしようとしているのに、やり方が嫌なわけです。
山村
それが僕もあの作品を見るときに一番痛いと思う。結局、ナルシスティックな部分しかでてこなくて、ライアン・ラーキンの人生に対する気持ちとか、ドキュメンタリーとしての意識とか、何も見えないんだよね。ラストで数人の証言者の話が組み合わさるのかと思ったけどもそれもなくて、全然ラーキンの人生は見えてこなくて、一番印象に残るのは、お金について怒りがこみ上げたあの言葉だけであって……
イラン
ラストの映像もちょっと印象的なんだけれども、なんていうのかな……[“Alter Egos”のなかで、二人が一緒に『ライアン』を]みた後の二人のやり取りで、非常に印象的な言葉があったわけですよね。ラーキンが、「現実のグロテスクなバージョンを創造するのは常に簡単なことだ」と。それに対して、ランドレスは、「普通の人にもドラマがある」と答える。そういう言葉でわかるように、[『ライアン』の]最後のシーン[路上生活で物乞いをするラーキンをランドレスが反対の歩道から見ているシーン]で、ランドレスが削られる。道の向こうから、無言のコミュニケーションができたっていうことを。なにか感動的なドラマがある、決着をつける、人生に負けずにやっていく、乞食の美学もあるぞ、っていうラスト。あれは、それまでの過程がなければ辿り着けないものなのかっていえば……あれは非常にわざとらしい結末ですよね。
山村
僕もラストシーンは、中途半端だと思う。ほんと描ききってなくて。あそこがほんとにランドレスが自分の立場を出しているところで、やっぱり傍観者でしかなくて。まあ、ドキュメンタリーなんだから、傍観者でしかありえないわけだけど、ラーキン自身に全然共感してない。今こうして[ラーキンが]悲劇であるということを利用してるってことしか、あのラストからは見えてこなくて。ライアン・ラーキンが追求した、普通の観察から人生の美しさをアニメーションとして定着させようという行為と逆の、アカデミーノミネート作家の没落という特殊な現実を紹介したフィルム。
イラン
何を大事に思うのかがどれだけ違うか、価値観がどれだけ違うかということです。[“Alter Egos”におけるラーキンとランドレスの]二人の最後のやり取りは、非常に皮肉なものですよね。[ランドレスが]「お金のためにやっているわけじゃないんだよね」と問いかけるわけですよね。それで、「お金がなくて何ができる」とあれだけ怒ったラーキンが、「芸術のため、作品のために」と答える。二人の間にどれだけ差があるのか、ということですよね。ラーキンの作品からは、大事なもの、愛しいものが充分に伝わってくるのに。ほんとに皮肉すぎる。
土居
僕はそういった皮肉さも含めて、ランドレスがとった方法論だと思います。卑劣なものだってことは自分でわかっているわけですよ。その醜さも含めて、僕は一応の評価をしているということなんですけどね。僕が「凡人なりに」って言ったそういうやり方しかできない、「グロテスクなバージョン」でしか自分はできない、「誰にもドラマはあるんだ」っているクリシェにしか回収されない語り方しかできない。そういう至らなさの次元も含めて、ランドレスは意識してやっているんじゃないかなあと僕は思っていて。
山村
それが意識的であってほしいとただ願うだけだけれどもね。
イラン
ただ、意識したからといって、何も問題が解決するわけでもなく、むしろ問題は増えていってしまう気がするんですけども。最近フランスでは、小説のジャンルとして一つ流行りがあるんです。「オートフィクション」っていうんですよね。それは、自分の人生、自分の体験をもとにフィクションを作ると。フィクションの中に、実際の体験の断片を好き勝手に入れる。一つの露出狂がそこにあるわけです。結局、本当がどうかは受け手の側が判断するものなのだけれども、作者は何の責任もとらない。結局、覗きの快楽があるという感じなんです。自分を晒したくてしょうがない。それが表現の十分条件にはまずならない気がするんです。だから、そういう人が、意識的にやっているのならば、一時的な効果を生み出すことも、作品という形でまとめることもできるだろうけれども、何らかの意味で共有されるべき貢献とは全く無縁な効果と作品にしかならないです。
山村
露出狂って言ったけれども、『ライアン』で倫理的に嫌なのは、ラーキンの作品へのリスペクトではなく、彼の栄光から挫折っていう部分だけしか描いていないっていうこと。そこを興味本位で、CGを使って見せるっていうのが、とっても苦しい。ラーキンのことを本当に尊敬している人がやることなのかっていうのは疑問。
イラン
本当に尊敬していれば、できないんじゃないですか。ドキュメンタリー[“Alter Egos”]で実際に言っているわけです。「これは、ライアン・ラーキンのためにやってるわけじゃない」と。
土居
だから、それしかできないんだってことを自分で意識してやっているってところで、ある程度評価できるんじゃないかと。イランさんが言った「表現」というレベルとは違うレベルで、あくまで観念的な方法論だけで作り出すっていう。「それぞれの人にはドラマがある」ってランドレスが言っているわけですよね。でもその一方で、ラーキンは自分についてまったく逆を言っていて、「僕は今にしか生きていない」「いかなる過去もどうでもいいんだ」と。そこにこそ、また言ってしまいますが、凡人と天才の差が出てきて、さらにランドレスはそれを凡人なりのやり方でしっかりやっているという。
イラン
凡人と天才という二つのカテゴリーしかないという分け方は避けたいんですけど。作品としてまとめて、世に提示するというのは、別に天才しかやらないことではないので。しかし、「どんなに人にもドラマがある」というのは、まさに平凡な……
土居
そうですよ。
イラン
となると、そういう作品を作るべきか。
土居
でも、そういう作品が「作品」として出てきている状況があるわけですから。「作品を提示する=真の表現でなければいけない」っていうように限定してしまうのは、逆に今の状況にはそぐわないんじゃないかなあと思うのですけれども。ああいうタイプの作品があるってのは、現代美術とかいろいろな領域の作品をみても、確かなわけですし。そういった枠組みのなかだったら、『ライアン』っていうのも、ある程度評価すべきなのじゃないかなあと。露悪趣味だったり、方法論ももちろん偽のものでしかないんですけども、そういう状況自体はあるわけで。そういう表現と方法論は確立したっていう考え方もある。
イラン
ネズミ講みたいな感じもしてしまいますが。
ニメーションであることの必然性
大山
この作品[『ライアン』]が、観客が客観的に見て判断する部分でもいいし、監督の意図でもいいんですけど、どうしてアニメーションで作られたのかってことについてはどう思いますか。なんでアニメーションじゃなければならなかったのか。
土居
それはランドレスがお金を稼げる手段だからじゃないですか。アニメーションでラーキンを中心とした陳腐なメロドラマを作るしかないから。で、一応補足しておきたいのは、ラーキンは決してドラマなんて必要としない人間なわけですから、そういう点で凡人と天才として分けているのですけれども。
大山
じゃあ、この作品を客観的にみた場合、アニメーションである必然性っていうのはどこだと思いますか。アニメーションにすることで魅力的になっているところは。
土居
それは特にないんじゃないですかね。
山村
大山くんはどうなの?
大山
感じないですね(笑)。あとから実写のドキュメンタリー[“Alter Egos”]をみたときに、『ライアン』でグロテスクにデフォルメした造形よりも、実際のラーキンがしゃべっているのをみている方がグロテスクというか……良い意味で。魅力的でした。でも、『ライアン』は、魅力的に感じてもらうためにわざわざCG化したのに……
イラン
逆効果ですね。
大山
じゃあなんでアニメーションにしたんだろうなって実写のドキュメンタリーをみて思って。
土居
自分の仕事だから、ってことしかないですよね。
山村
まさに自分のためだよね、どう考えても。『ライアン』っていうフィルムは、ライアン自身の痛みを表現しようとしたものではないよね。でも、現実は、みんなラーキンの情報なんてほとんど誰も知らないわけだから、何も知らない人でも、あのCGだけをみて痛みを感じられるとは思う。だから、一般的な観客のレベルでは、CGであったとしても、伝えられることは伝えられるとは思うんだよね。陳腐なドラマであっても栄光と挫折ってことは伝わるし。ただ、それがベストな表現であったかどうかはまた別だし、ランドレス自身、そういったものを伝えたかったかどうかってことは、こうやって分析していくと、やっぱり疑問なんだけど。
イラン
CGアニメーションにする必然性は…
山村
まったくないね。彼がCGをやってたからという以外に理由はないし。今回の座談会に合わせて、クリス・ロビンソンの評も載せるんだけど、やっぱりあの文章を読んだ方が、ライアン自身の人生の深みや痛みってものはきちんと伝わってくるんだよね。ただ、僕はこれを最近よく思うんだけど、アカデミー賞までとってメジャーに露出するフィルムになると、やっぱり、見る機会も増えるし、だから情報を伝えるという部分では成功している。ライアン・ラーキンのことを知ってもらう部分では成功しているし、その部分ではすごく認めるし、意義は一つあると思う。ただ、アニメーションという見方でみると、短編のアニメーションとして優れていると評価はできない。イランさんもあまりに大きな評価を得すぎているのではないかと言っているけど。
イラン
作品である以上、意義とは別に、重要な部分があってほしいですよね。
山村
土居くんは「凡人にしてはよくやってる」って言ってたけど(笑)、確かに、凡庸なCGのなかでは目立つ部分があって。その強さが果たして良いものであるかはわからないけど、グロテスクな部分だったり非常に印象に残るものを作っていると思うし、彼のオリジナリティーという部分では、個性はあると思う。
土居
たちの悪い強度があるんですよね。
山村
そう。でもそれがいいかどうかってのは疑問。
土居
もちろん僕も、これが正統なアニメーションかときかれれば、「違います」と答えますけどね。
山村
『ビンゴ』とかみても、確かに残るんだけど(笑)、そういう悪い癖の強さみたいなものは持っている作家なんだなあと。
イラン
まさに、『ビンゴ』という作品のテーマとつながってくるわけですよ。嘘を充分に大きく言えば、本当になるのか。
山村
『ライアン』に対する批判ばかりになってしまったので、これはここらへんで終わりにして、ラーキン作品についてもっと建設的に話しましょう。
土居
その前にちょっと。さっきから「凡人」って言ってますけど、それは自分も「凡人」の領域に入ると思ってますので。凡人として、シンパシーを感じる部分があるんだということも一応言っておきます(一同笑)。
大山
なんでレコーダーに向かってしゃべってんの(笑)。
土居
あとから付け加えたらまずいじゃないですか。ちゃんと記録して残しておきます。
イラン
作品をみながら、自分が凡人であるかどうかというのを感じる必要はないということも言っておかねばなりませんね(笑)。
(後編に続く)
|