イアン・ラーキンと『ライアン』
Animations座談会2(後編) < 1 2 3 >

村浩二の戦略

土居
[山村浩二の]『カロとピヨブプト』(1993)だとか、物語がないですよね。

山村
はい。あの頃ずっとこういうことがやりたかったんだよね、NFB的なことが。ところが、現実に自分が現代の日本で受け入れられるためには、ちょっと物語性が必要なんだよね。そういうことがわかってきて。あれはテレビの仕事だったし。だからほんとに少しだけ説明を加えた上で、マクラレンやラーキン、それ以降の NFBの作家たちがやっているようなことをやろうと。でもやっぱりその後、自分の経験も積んできたうえで、違う方法、別のやり方もあるんじゃないかと思って、より物語性を強めていったんだけど。だけど最初は言い訳で、物語性を加味してた。

土居
すごく納得できる話です。


Imagination (1993) Yamamura Animation

山村
だから、『カロ』の「あめのひ」とかは、見る人によっては「わけわかんない」って受け入れてもらえない人もいる(笑)。

荒井
でも、クリス[・ロビンソン]さんは、そういうところもよくみている書き方をしているなっていうのを思い出します。[編集部注:『ヤマムラアニメーション図鑑?山村浩二ワークスブック』に収録されている「ア・モーメント、プリーズ」(p.118-119)を参照のこと。この本の情報はこちら。]

山村
だから、「『バベルの本』(1996)のあたりで凡庸になった」みたいなこと書かれているけど、まったくその通りなんだよ(笑)。あそこはちょっと実験的で、その次にいくステップなんだけど。

大山
こわい……(一同笑)

山村
そう。見抜かれちゃうんだよね(笑)。だからね、……なんでもないです。

土居
なんですか(笑)。

山村
だから、勇気がいるんだよね。ただやりたい事をストレートにやろうと思っても。世の中に受け入れられるかどうかってのをやっぱりどこかで気にしてしまうわけで。完全に理解不可能なものを堂々と作る勇気はなかなか……一般レベルでの理解ってことね。

土居
そういう点からすると、[プリート・]パルン作品は理想的なポジションにあると。

山村
パルンはね、ほんとにすごいんだよ。僕も土居くんに刺激されてパルン評を書こうとしてるんだけど(笑)。でも、これすっごく膨大な論文になると思って。タイトルだけは決めていて、「奇妙な身振り」っていうんだけど。パルンの特殊なアクションやポーズをピックアップして、そこからどういうものが読み取れるかってのをやりたいと思ってるんだけど。

土居
期待してます(笑)。

山村
ありがとうございます(笑)。文章力が伴わなくて……論文がめんどくさいのは、はじめにアニメーションに写っている事を文章で説明しなければいけないじゃないですか、いちいち。「このシーンはこういうふうになっていてこうで……」って。

土居
どういうふうに説明すべきなんでしょうね。

山村
ほんとは、結論だけいいたい(笑)。座談会だとあまり説明しなくても結論だけ言えるからいいんだけど。動きでやっていることを言葉で置き換えなくちゃいけないのがしんどいよね。

土居
だから、ラーキンを語るということになると、ランドレス[が『ライアン』でやった]みたいに観念の次元でしか語ることができなくて……[ラーキン作品を語るにあたって]物語をつくることしかできなくて、歯痒さを感じてしまうんですけど。

ニメーションとしての感動

中田
すいません、また質問をしてもいいでしょうか。『ウォーキング』や『ストリート・ミュージック』をみるより、実際に歩いている人や路上演奏している人をみたほうが、感動するんですけど(一同笑)、その二つは別の次元の感動なんですか。私が気に入らないのは、単に彼の感性が気に入らないってことなんですか。

山村
もちろん好き嫌いとか感受性の違いはあると思うよ。絵も癖があるから。僕もその癖って部分ではライアンの絵は自分の好みではない。またそれは別の話じゃないですかね。

土居
ちゃんと説明できるかな……中田さんが歩いている人をみたりストリート・ミュージシャンをみたりする感動の状態のと同じような状態をイメージ化して作っている。

イラン
どっちに感動するかというのは、別次元だと考えた方がいいです。まさに写すという行為が、どうしても別次元へ持っていくことなので。

山村
次元を移し替えている。彩ちゃんが感動していることは、自分のレベルでしか体験できない。人々をただみるだけで感動するってのは。でも、『ウォーキング』とか『ストリート・ミュージック』をみると、パーソナルな感覚を共有できる。

イラン
一方に感動してもう一方に感動しないのも別に問題はないし。秤の両側にかけるようなものではないんですね。路上の演奏者に感動をおぼえないのに、ラーキンの作品に感動するってこともある。それでも問題はないし。

山村
これはアニメーションとしての感動があるわけで。ストリート・ミュージシャンに感動するからといって、それをアニメーションにする必要はないじゃん、と考えることもない。

中田
そうは言っていないんですけど、つまり、なんで私があれに感動しないのかっていうのが納得いかないんですよ(笑)。

山村
同じストリート・ミュージシャンがいるにしても、ある人はAに感動するし、他の人はBに感動するだろうし、同じライアン・ラーキンのアニメーションがあるとして、ある人はピンときたり、他の人はそうでもなかったり。だから、感動しなかったからといって、それがダメだとかそういうこともない。どんな歩きをみても感動するわけじゃないでしょ?

中田
そうですね。

山村
フィルムも出会いだし、みた環境とか自分の状態も関係してくるし、自分の状態によってはたいした演奏でないストリート・ミュージシャンにも感動するかもしれないし。フィルムもそうで、すごく良い時期に良いコンディションでみたら感動するだろうし、それほどピンとこないままであることもあるだろうし。それはもう、しょうがないんだよね。

イラン
でも、そういう個人的なレベルを超えた次元での力を持っている作品だと思います。「個人的な状況で左右される」というのは、まず作品にそれだけの力があるときの話であって。あまり良くない作品に、たとえば、「人生が変わる」体験になる力はないわけなので。ラーキンの作品には、共有できるそんな力があると確信しているし、共有していきたいわけです。

山村
この会が目標とする「正統なアニメーション」の一つの例として、多くの人に出会ってほしい。

土居
この作品って、アニメーション畑にいる人にしか通用しない作品ってわけではないですよね。

山村
逆にアニメーション畑の人は、さっき分析したように、今みて感動するかどうか微妙な気がする。アニメーションに関係ない人の方が、ピンとくることが多いような。「こんな映像もあるんだ」って。

和田
質問なんですけど、この人みたいに、感性をそのままアニメーションにするってのは、他の人にはできないんですか。

山村
いや、やっている人はいろんなところにいるし、商業アニメーションの人でも、そういうことを追求しようとしている人はいるし、そういう人がてがけると、やはり良いシーンとか良いカットが生まれる。純粋さっていう部分では、いろんなアニメーションの分野でそれぞれのアプローチでやろうとしている人がいるし、僕もやろうと思っている。

和田
それを世に出せた、形にできたってのが、この人のすごさであるわけですか。

山村
個人制作っていうマクラレンがつくった道があって、次の世代を担う仕事ができたってのはすごく大きいと思う。

土居
ラーキンって天然ですよね。マクラレンよりも。

山村
たぶんそう。

土居
だから、この人が拾い上げられたこと自体が、ある種、奇跡的。

山村
その後の人生をみてもわかるように、一人では何もできない人だったと思うんだよね。

土居
この言い方が適切かどうかはわからないんですが、ちょっとアウトサイダー・アートっぽいというか、ダニエル・ジョンストンとかそういう。言っちゃえば、ちょっとはずれちゃってる人というか。

山村
実際、はずれちゃってるよね(笑)。ほんとにもう……

イラン
それもやっぱりあの時代の影響があったと思うんですよね。ストリート・ミュージシャンとか乞食とか。自由で誰にも害を及ぼさないで、それでもやっていけるという理想に近いもので。

山村
でも今のヒッピーとは思想の点で違う。

イラン
作品にもじゅうぶん見てとれる気持ちよさ。単純に気持ちが良いんだよね。

山村
解放されていくというか。

土居
それはもう、みて感じてもらうしかない。

山村
そうなんだよね。でも感じ方は人それぞれなので……

リート・パルンの場合

和田
パルンの場合の感性とラーキンの感性は、違うものなんですか。

山村
パルンの場合も、完全に観念とか理論を超えた部分がすごくあって。でもそれは方法論が違っていて、パルンの場合は自分ではほとんどアニメートしないから。原画も最近では描かないって言ってたし、ライアンのダイレクトなものとはまた違う。

イラン
ただ、パルンの作品だと、感性のみをもって作られているわけではないですよね。この作品だと、感性「のみ」をもって接するという違いかな。

山村
僕の中では、最近の『カール・アンド・マリリン』(2003)なんかは、観念の部分にだいぶ寄ってきちゃったかなと。まあ、それまでの作品もそういうベースの部分はあったんだけど。でも、そういうとこよりも、感覚で伝わる部分がすごく興味があるし、刺激を受けているので、そこで「身振り」っていう言葉にならないところから、パルンのやろうとしていることの一側面を引っ張りだしたいなと。パルンもただ俯瞰的にみちゃうと、クリス・ロビンソンが言っているみたいな、「アメリカとソ連がどうたら」とかそういうことになっちゃって、社会批判的なカートゥーンの系列に入って、ってとこで終わっちゃう[編集部注: Chris Robinson, “Unsung Heroes of Animation”のパルンの章を参照のこと。この本の情報はこちら]。それはどうかと思っちゃうんだよね。もっと深いものだとか計り知れないものが、パルンの、特に初期作品には多くて。だから好きなんだけどね。

土居
パルンはそういうこともふまえて、意識的にやってますよね。

山村
意識的にやっているよね。自分のなかの変な部分を引き出す力をすごくもってるから。

土居
パルンも、「自分について作品をつくっただけなんだ」っていう発言もぽろぽろこぼしていて。

山村
感性から作っているよね。アニメーション自体はダイレクトにやっているわけではないんだけど。ドローイングは今でもたくさん描いているし、エッチングもやっていて、そういう描く行為から発想されたアイディアを、もう一度フィルムに定着することで伝えて、アニメーションにしている。だからパルンを理解するためには、ドローイングもたくさんみる必要があって。「ああ、このドローイングのアイディアをアニメーションに移しているんだ」っていう発見がたくさんある。やっぱり、ダイレクトに自分の感覚から出てくるものをひっぱりあげているんだと。ラーキンとはやり方は違うけど。

土居
かなり広い範囲の話に……

山村
今回は広がったねえ。じゃあそろそろ終わりということで。

2007年5月27日山村浩二宅にて


ライアン・ラーキンの全作品は、DVD"Ryan(Special Edition)[Amazon]"に収録されている。このDVDの情報はこちら。

ライアン・ラーキンと『ライアン』 Animations座談会2(後編)  < 1 2 3 >