リート・パルン
Animations座談会7 < 1 2 3 4 5 >

 今回の座談会は、再び一人の作家を取り上げる。フェスティバルを中心としたアニメーション史を記述するとすれば、間違いなくその歴史の中で重要人物となるであろう、プリート・パルンである。エストニア・アニメーション界はもちろんのこと、同時にイゴール・コヴァリョフ、山村浩二といった現代の作家たちにも大きな影響を与えている彼。しかし、ひとたびアニメーション界を離れてしまえば、ほぼ無名といってもいい、クリス・ロビンソンとの対話の中でも話題になったような「知られざる」アニメーション作家の一人である。今回の座談会は、あまりに有名であり同時にあまりに無名であるパルンについて、その正当な評価を行う試みである。時間の関係ですべての作品を取り上げることができなかったが、パルンについては、いまだ発売予定のままになっている日本盤DVDが発売されたとき、また再び取り上げることになるだろう。(土居伸彰)

期作品について

Koji, Priit, Igor at Norwich

別な処女作、"Is the Earth Round?"(1977)

土居
クリスさんの本によると、これが監督処女作ですね。この作品の前の年にヨーニスフィルムに入っています。

山村
その当時はタリンフィルムだね。

土居
あ、そうだ。平面(アニメーション)部門に。その前の年までは、植物の生態を調査する学者として働いてますね。

大山
どういうふうにつくられた作品なんですか。なんのために、誰がお金を出して。

山村
ソヴィエト時代だからね。国家がお金を出して。

大山
じゃあ別に全部自分がやっているわけじゃなくて、動画の人とかが何人か入って……

土居
そうですね。パルンはかなり主導権を握ってやったみたいですけど。「全然やり方がわからない」と困ったらしいですが。

山村
国営スタジオだからいろいろなスタッフがついていて、初期の作品ではアニメーターの最初に必ずマッティ・キュットの名前が入ってる。あの頃からやってたんだね。マッティさんは今は独立しちゃって、エストニアでは珍しいインディペンデントの作家になってる。みんなユーニスかヌクに所属してるんだけど。

土居
パルンはスタジオに入る前もずっと絵を描くのが好きだったみたいで。

山村
諷刺画家としては活動してたんだよね。

土居
いろいろな国際フェスティバルに出品したりして。

大山
最初の作品の動きが下手だっていうのは、下手なんじゃなくてああいう演出なんですかね。

土居
この作品に限っては、あまり自分の意図通りにはいかなかったみたいですけど。絵画とアニメーションの違いを学んだって言ってますね。「何を描くか」というよりも、「それをどう展開していくか」という方がアニメーションにとっては重要なんだと。

大山
でも動画は動画の人がやってるなら、例えば歩きが変な重心になっているのも、慣れている動画マンがいたら「おかしいですよ」といいそうなものだし、あえてやってるんじゃないですか。

土居
でも、次の作品と違って、意図通りにはなっていないな、という感じがしませんか。

山村
自分はこうしたいと思っていたけれど、できなかったという意味の意図だよね。

土居
うまいことやりきれてないというぎこちなさというか。

山村
原画はやってるから、中割りを手伝ったとしても、どうみせるかというのは、絵は描けるけれども、どう動くかというのは、稚拙になっちゃってる。編集とか音の付け方にしても。

土居
素人っぽいですよね。

大山
そういうのは、監督を初めてやるって人が原画を描いて、動画の人が渡されてあいだを描くじゃないですか。「これ、こんな感じになっちゃうんですけど、大丈夫ですか」とかならないんですか。

山村
エストニアの場合だともっとファミリーな感じでやってるから。みんな動きが気になるの? 俺は別にそれは気にならなくて、問題ないよね。

大山
個人でつくったのであれば、拙いとか下手なのはわかるんですけど、組織でやっているのであれば、もう一段上にみてる人がいて……

山村
チーフを任されているわけだから、一段上にいる人っていうのは自分。日本のジブリみたいに、絵を描けない人でも監督やらせて映像だけは無理矢理にクオリティあげるっていうような作り方はしないと思うけど。あ、ここはカットで(笑)。プロデューサーが仕切って、ある程度の商品レベルまで上げようという考え方はないかも。みんなが手探りで。パルンが初めてチーフに立ってアニメーションをやるっていうぎこちなさが出ていると思う。僕も最初に観たときあまりに下手すぎて「きついな」と思ったんだけど、むしろよくできているな、と思ったんだけど。それぞれの個別のエピソードが。和田くんみたいって言った、牛をゆっくりよけていくところとか。大人になるとすーっと通っていくんだよね。あの感性がすごい。

土居
絵のスタイルなどがすごく時代性を感じさせますよね。

山村
モロに70年代だよね。

土居
エストニアでもビートルズは聴かれていたんですね。

山村
イエロー・サブマリンも出てきてたね。

ルンは長い?

和田
長さは決められるんですかね。

山村
みんな中途半端な長さだから、きめられてないのかも。日本の商業的な縛りはないんじゃないかな。フィルムはこれ以上使うな、とかそれくらいしかないんじゃない。

和田
自分が同じものをつくるとしたら、もっと短くなりそうというか、全部そうなんですよ、パルンは。長いんですよね。

土居
長いですよね。

山村
それは体質かもしれないね。長いけど、ワンカットずつはすごい短い。初期の頃から詰め込みまくっている。

土居
逆に尺が長くなった『草上の朝食』以降は長いと思わないんですけど、その前のやつは、アイディアにしては尺が長いな、とは思いますね。

山村
あー、そうか。僕は『草上の朝食』以降はちょっと長いかなと思うけどね。『1895』や『ニンジンたちの夜』や『カール・アンド・マリリン』もちょっと長いかな、と思う。

グェン
珍しいですよね、みな速いとか短すぎることになりがちじゃないですか。

山村
中期の『おとぎ話』と『草上の朝食』と『トライアングル』は、内容に対して程よいと思う。前期と後期はどっちも長い感じがするかな。長いっていうのは人の受けとめ方によるけど、でも長い。

和田
“Some exercise in preparation for independent life”も、僕が同じテーマでやったら五分もいかへんのじゃないかな(笑)。

山村
あれはすごいよね。あれだけのネタであれだけみせるっていうのは。

大山
あのお話というかあらすじなら、すごくつまんないものになる可能性もありますよね。ああいうテーマですっごくつまらないものをいままでいっぱい観てきた気がします。

土居
初期の作品って、アイディアとしては結構ありきたりですよね。”Is the earth round?”も、アンドレイ・フルジャノフスキーの『不思議の国のコジャヴィン』を思わせないでもないし。

中田
今となってはありきたりの話に思えるけど当時の時代背景だともっと違う意味合いを持っていたとかいうことはないんですか。

山村
あるかもしれないね。

土居
企画通すためにはわかりやすいプロットの方がよかったのかもしれませんね。”And Plays Tricks”も、レオ・レオニの詩人のやつと構造的には同じだと思いますし……

グェン
国営のスタジオの方針というのはあるでしょうね。許される範囲のなかで、精一杯毒を入れてしまうとか。そういう意味での、変な寓話性が。一見無難そうにも見える側面がないと。

土居
あらすじをみれば凡庸にみえちゃうものが、実際の作品ではこんなふうになっちゃう、みたいな。そういう良い意味での破綻が、初期のパルンの魅力であるような気がします。

山村
たぶん、すごく自由に作っている部分と、どれだけ規制があったのかわからないけれども、抑えられてる部分があって、でも、社会批判的な内容はきちんと折り込んでいるというか。このへんが、逆にすごいとおもうんだよね。社会主義時代だったのに。

土居
ソ連では70年代だと、ヒートルークが活躍して社会批判的なものっていうのがもうすでに……

山村
ヒートルークだとどのへんの作品ですかね。70年代後半だと。

土居
その流れを準備したということでもうちょっと前のことですけど、『ある犯罪の話』(1962)からはじまって、フルジャノフスキーが出てきたりだとか……

山村
ソ連全体の気風としてあったと。

土居
そうですね。タリンフィルムもソユズムリトフィルムの下部組織みたいになって――パルンもヒートルークにすごく批判されたりしたみたいで――一般的な作品としてはまだディズニー的なかわいいものが残っている状況がまだまだあったので、こんなぐちゃぐちゃしたものをつくりやがって、と批判を受けたみたいですけど。

山村
でも、パルンの前のレイン・ラーマットとかももっと気持ち悪いけどね。『地獄』とか。

グェン
政治性が一番タブーだったとして、社会諷刺はある意味でアニメーションだったからこそ許されたということもあったと思いますけれども。タブーなところさえ触っていなければ、他の表現ほど細かくチェックされずに済んだのかも。

土居
ソ連のその当時は、比較的検閲が緩くて、それはアニメーションだから子供向けのものばかりだろうと考えられていたということもあったらしいんですけど、できあがってしまったあとに「これはやばい」となることが結構あったみたいです。どの作品か忘れたんですけど(“Is the earth round?”でした:土居)、結局エストニアだけで上映されて、ソ連では禁止、という処置をとられたりもしたらしいですよ。

ルンはかわいい?

和田
最初の作品ですけど、最後におじいちゃんになるじゃないですか。でもなんで最初からおじいちゃんぽい顔なんですかね。(一同笑)

大山
最初は「子供なのにおじいちゃんっぽい顔だな」と思ってたけど、最後をみたらやっぱり全然違うから、「ああ、やっぱり最初は少年だったんだな」ってわかった(笑)。

山村
しわが多いのかな。

大山
あと髪の毛が毎回……

山村
ばさばさだよね。

和田
縮れてますしね。

グェン
クマにしても。

山村
薄いし(笑)。

大山
なんていうのかな、あれはかわいくしようとしてああなっているんじゃなくて、わかってますよね、ああなっちゃうことが。気持ち悪くしようとしたり。

グェン
自分の絵のスタイルじゃないですか。

大山
普通の人がみたときに、「かわいい」じゃなくて「ちょっと変だな」と思ってしまいすよね。どれくらい共通しているんでしょうね。ぼくたちがあのキャラクターをみる感覚と。

山村
でも、かわいくつくろうとしてないよね。お話からみたら。

大山
でも、動物のやつとかは、かわいいキャラクターにしたらほんとに子供向けのかわいい作品になりそうなもんなのに……

中田
根本的に日本と同一の「かわいい」っていう価値観は無いんじゃないですか。外国の子どもの描いた絵をみるとよくわかるんですけど、日本の子供の描く絵と全く違うんですよね。特に人物の書き方が違う。それってどんな絵を魅力的に思うかの違いが明確に表れていると思うんですよ。やっぱりそういう根本的な違いがあるんじゃないですか。だからそこまではおかしくないと思う。

大山
やっぱり禿坊主でちろちろっと髪が生えていると、なんていうのかな、なんか病気の人みたいな印象があるじゃないですか。向こうの人はぼくたちが思うほどにはえげつないものだと思っていないんですかね。

グェン
そんなことないと思いますけども。

山村
子ども向けにつくろうとしてないことは確かですよね。

グェン
自分の絵柄がまず先にああいうものだったとしたらまずしょうがないというか。逆に子どもが描いた絵のようですよね。

山村
パルンは子どもが描くような絵を求めて描いているから。

グェン
その気持ち悪さも含めて、子どもの絵のよう。

山村
動物にしても、腕の描き方にしても。大人が子供に与えようとしてつくったものでないことは確かで、イワノフ=ワノがつくっているような子ども向けの長編映画みたいなものとは違う意識で作っている。

グェン
あれも、かわいいのかどうかはわかりませんし。パルンは明らかに違うんですけど。

山村
でも『せむしのこうま』や『雪の女王』の方が日本人にはわかりやすいかわいさに近いよね。

グェン
そして向こうとしても、かわいさを追求したということがありますよね。

山村
パルンはそういうものではまったくないわけだから。比べるとかなり違う。

グェン
観ていると久里洋二を思い出すんだよね。風刺画から来て、絵が作品に占める割合がはじめから決まっているような。動きがぎこちなくてもまったく問題ない。

山村
正しい歩き方なんかしてないもんね。

ルンの歴史的意義

グェン
その意味で、面白いかという意味でコメントすれば、面白いんですけれども、作品の幅、歴史的な意義という点ではなかなか評価しがたい気がしますね。

山村
パルンが?

グェン
パルンも久里さんも。歴史的に新しいことをやったというのは確かですけど、作品の意義。大きく見て、人生が変わるような作品だとか、そういう深い意義をもった作品かといえば、ちょっと疑問が残るんですよね。

土居
そうですか?逆な感じがしますけど。

山村
それはパルンの全作品を通して、という意味ですか。

グェン
全部の作品を観ていないのでなんともいえないのですけれども、面白くないという意味ではなくて、面白いんですけど、作品として様々な側面があるとすれば、幅としかいいようがない気がしますけど……また後で触れます。

山村
初期の作品という意味では、ある意味で僕も同意するんだけど。ものすごい興味深い作品ではあるんだけど、アニメーション史のなかで今の動物のやつ("And Play Tricks")を挙げるかっていったら……そういう意味ではわかるけどね。でも、僕は『草上の朝食』は、これ以上幅のある作品はないと思ってる。

グェン
構成とかそういう意味ですよね。結局、その構成力は受け継がれて、去年か一昨年にアヌシーでみた”Marathon”(カスパー・ヤンシス)もパルンの弟子の作品ですけど、構成は立派なんですが……ある目標まで、途中はわけわからないけれども、しっかりとそれに向かって進んでいきます。そういう力は立派なんですけど……

山村
その力は別にどっちでもよくて、”Marathon”はそういう構成力だけうまく受け継いじゃって、面白くないものになってしまっている。僕がパルンのなかに見出しているのは、座談会の後半の方でも言いたいことなんだけど、アニメーションの根本に関わるようなテーマというか要素といったものをすごく抱えている作家だということ。”Some exercise”でもそうだけど、一つの動き、単純なループのなかに新たな意味を作っていくというのかな、そういう作家ってあんまりいない気がして。アニメーションであるからこそ面白くて、深みを見つけられるものを持っていて、動物のもそうだけど、メタモルフォーゼっていう要素でも、これほどいろいろなバリエーションをもっている作家もなかなかいない。

土居
そういう細部と構成力が両立しているのがすごいですよね。

山村
構成力のなかに、アニメーションとして魅力的ななにかをすごくたくさん詰め込んでいく。パースの違いだとか平面的な遊びだとか。

土居
そして一番コアなところには創作に対するすごくシリアスなテーマや自分にとって切実なものがあって、そこもすごいなと思いますね。表面上は笑えるんですが。 2 >

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