上の朝食(1987)
和田
最後の電車のシーンはなんなのでしょう。
山村
あれは日常に帰っていくんだと思う。登場人物が何人か乗り合わせているから。公園みたいなところに集まった帰り。和田くんは何回目?
和田
3回目ですね。
山村
大山くんは?
大山
4、5回くらいかなあ。
土居
僕はまだ10回くらいですね……
中田
3回目くらいですね。
グェン
2回目です。
土居
山村さんは何回目ですか。
山村
わからない……50以上は。昔は16mmの映写機持ってたから、プリントを買おうと本気で思ってた。まだビデオもない時代だったから。
土居
最初に観たときに比べるといろいろとわかってきました?
山村
そうだね。だいぶわかりやすくなってくるよね。構造が混乱させるから複雑に見えるけど。
グェン
でも構造上、解明されるべくつくられているんですよね。
山村
そう。
土居
でも、がっちり物語に絡んでくる要素以外にもほんとにいろいろなことが起こっていて、観るたびに「あ、こんなシーンあったっけ」ってなります。しかもそのシーンがどれも面白い。どうでもいいシーンだから覚えていないっていうわけではなく。いつも新鮮な気持ちで観れます。
山村
そうかあ……俺もう全部覚えちゃったや……(一同笑)。だからたぶんみんなと見え方が違っちゃってるんだろうなあと。今みんなにどう見えてるか想像できない。
中田
これ観たときにすごく強烈な印象を受けて、物語の内容は全然わかってなかったですけど、とにかく「すごい」っていうのと「なんだこれ!?」ってドキドキする感じなんですけど……話の流れについてはもちろんわかるんですけど、この作品において、「わかる」っていうのはどういうことなんでしょうか。
土居
俺もこの作品は、わからない。面白いんだけど。
中田
動きが素晴らしいとか、私なりにはわかっているんですけど、何がわかったら、胸を張って発言できるんだろう……
山村
そんなの僕だってわからないですよ。何回観たって。
土居
たくさん観て、考えて考えても、まだわからないですね。
グェン
『ホテルE』についての指摘にもあったように、非常にわかりやすい「表現の自由」というテーマがこの作品にもあって、それをエピソードを重ねて複雑化していくという工程は同じですよね。
山村
だから観る方は難しいけど、作る方はそこまでではないのかもしれない。裏をかいて作っている。一回か二回観ると、大きな構造--芸術の自由--があることはわかる。で、最初に混乱があるのが時間軸。エピソードが4つに分かれていることへの混乱。でもそれは何回か観るとわかってくる。だから、わかるレベルがいろいろある。
中田
時間軸の混乱は、つながってわかったときに意味のあることですか。四つが関わっている、ということはわかるんですけど。
山村
特別な意味はないと思うよ。遊びだと思います。
『1895』
ろいろな解釈
土居
『1895』で、最後にルイ・リュミエールが「シネマトグラフ」って言うときは「おーっ」って感じになるんですけど、この作品でマネの絵ができあがったときは、そうはならないですよね。
山村
初見はなるかもしれないな。
土居
でもあんまり、「芸術が生まれたぞ!」みたいな創造の喜びみたいなものは感じられませんよね。
グェン
予想外のことであれば、やはりまず驚きがあります。
山村
タイトルはマネの絵になっているけど、最初の段階では、あの四人がその登場人物になるというのは想像があまりつかないよね。あそこに来てようやく意図が見出せる。
土居
マネのこの絵じゃないといけないんですかね。この絵じゃなくても成立する可能性はありますか。
山村
僕はこの絵はかなり凄い選択だと思いますよ。途中でダリやゴヤの絵がちらちらっと映ったりしていて、ピカソも出てくる。マグリットの絵も出てきたけど。でも、その誰でもなくて、マネなんだよね。やはり古典と近代を分けるところに位置していた作家だから、画家としての歴史の位置はかなり重要だし。芸術に新しい風を吹き込んだっていう。近代以降の芸術の始まりってことでこの絵を取り上げたんだと思う。
土居
でもその絵の創造は権力から鍵を受けとって、しかるべき場所で行われなければいけない。
山村
そこが皮肉なんじゃないですか。最初の文にもつながる。(”We dedicate our film to the artists who did everything they were permitted to do”)
土居
そのpermitっていうのは、どういう「許す」なんですかね。もしかしたら、社会主義っていう制約があって、「これだけはしていいよ」って許される枠内での創造なのかもしれない。それとも、「ベストは尽くした」というような、社会的な制約が関係ない状態での、あくまで個人にできうることの限界の追求なのか。結局、主人公の四人は名画をなぞるってことしかやらないわけじゃないですか。
山村
彼らがやっている行為には意味がないような気がする。名画をなぞろうと思ってやっているとは思わない。この作品の物語を、「名画を再現するために四人が許可をもらう」っていうふうに要約しちゃうと、つまらないよね。
中田
最後に許可を与える人のサインはパルンのものなんですよね。
山村
あれは冗談だろうね(笑)。許可者は透明にしているし。権力者をみせない。わけのわからない社会の権力者を象徴しているのだろうけど。
土居
マネが選ばれているのは、近代絵画を始めた人であり、それ以降の絵画にとっての一つの留め金になっている……
山村
僕は突破口だと思う。
土居
突破口ですか。でも逆に、それ以降の芸術にもたらされてしまった息苦しさの原因というか、本当の意味での創造ではなくて、剽窃だったり自己言及だったり、芸術のための芸術といったようなものが出てきた、ってことも暗示しているのではないかなと思ったのですが。『1895』とも共通していると思うんですけど。
山村
映画の歴史を、っていう。
土居
はい。パルンもそういう作家じゃないですか。絵画史や映画史に対する言及を重ねていって。彼にとっての問題は、世界全体がそういう状況になっているなかで、本当に創造するってどういうことなんだろう、というものなのであって、その状況への戸惑いと開き直りみたいなものがいつも作品からは感じられるような気がするんですよね。
山村
ノルシュテインほど、創造するってことをある意味「能天気」に信じていないのはわかるけど……でも、これを観る限り、実際のパルンさんに接している限りでは、純粋に芸術が好きで、この作品は芸術の自由を謳っている気がするんだよね。芸術家は自由にやりたい、でも社会的な制約があるな、くらいのレベルの皮肉じゃないかな。マネの絵が出来るためにも……彼らは真似しているというわけではなくて、社会の構造のなかで、いろいろなものをかいくぐって、なんとかかたちにすることができた、っていう。
グェン
もう一つあるような気がするのは、『ホテルE』では「アメリカン・ドリーム」などと出てきていたけれども、皮肉と同時に憧れがある。マネに関しても、自分たちとは違う環境から出てきた、という憧れがあるのではないか。ソ連の状況でああいう絵が描けたかどうか。描けなかったんじゃないのか。
土居
じゃあ僕の解釈はだいぶ違うみたいですね。社会主義だけに限ったものではないような気がしていて、美術史をふまえなければ創造しえないという時代における創造の意味を問うものなのではないか、と。マネはオリジナルであり、新しいモードを期せずして生み出してしまった人だけれども、後の人はそのモードをなぞっていくことしかできない。ルーティーンのなかに組み込まれた創造。例えばソ連のアニメーションスタジオがディズニーをルーティーンに組み込んでしまったことだったり、ディズニー自体はスタイルとして革新的なものだったけれども、その後追いとしては、それをなぞるようなことしか許されない。一つの意味では社会主義におけるものではあるのかもしれないですけど、もうちょっと大きな意味で、創造一般についての話なのではないかと僕は今のところ考えているのですよね。
山村
シンボリックに描いているのでどういうふうに読んでいってもいいと思うし、そういう広げ方もあるけど、実際、80年代の末にできて、共産主義が崩壊するギリギリのところだったから、最後の最後の、社会主義に対する単純な皮肉として、自分たちの状況を描いているっていう側面が強いと思う。
グェン
そうですね。何が象徴的でないのか、というのを考えると、行列や物がないことを描いているわけですよね。
土居
そういうふうに限ってしまうと、どうも取り逃がしてしまうものがあるような気がして……もうちょっとなにかあるな、という。パルンさんも自分の実感をスタートにして作品を作り上げていく人だと思うので、もちろん社会主義の国に住んでいた人間の実感として、社会制度を留め金の一つとして浮かびあがってきますけれども、主眼にあるのはもうちょっと根本的な「創造」なのではないか、と思うんですけどね。
山村
この意見ももちろんありだと思うし、狭い範囲に留まるような作品ではないと思うけれど、そっちよりの話だとどうしても狭くみえちゃうんだよね。
グェン
創造上と政治上の、自由と制約の関係には興味深い側面がある。
中田
そういうこともありつつも、作っている人って根本の部分では能天気な気がするんですけど。作りたいから、作る。
山村
作ることを楽しんでいる。土居くんは行き詰まり感があるというふうに捉えているみたいだけど。
土居
行き詰まり感というか、この時代にこういうものを作るっていうこと自体に、閉塞感がつきまとうんだってことです。
山村
そういうことを読み込むこともできるとも思うんだけど、一つの広がりという意味で。でも、実際に作っている人がそういうふうに捉えているか、っていう話だよね。
グェン
文学でクンデラもいつも言っているように、遊び心と痛烈な批判が両方ある。
土居
だから両方あると思うんですよ。創造することの喜びと、一方での、これは本当に創造なのか、という疑念。『1895』でも同じようなテーマが繰り返されていると思うんですけど。『ホテルE』だと、西側の人たちは自分で言葉を発しないで、あらかじめ服に印刷してあるフレーズで会話をするんですけど、Aを鼻につけた主人公は拙いながらも「FINE」って自分で描くんですよね。あと、絵も描きますし。でも一応作り出せてはいるんだけれども、拙いというところに、本当に作り出すことの難しさみたいなものを感じてしまいます。
和田
パルンさんが語りたかったり描きたかったりしたものは、『草上の朝食』に関してはまだ理解していないんですけど、発想とかどうやってこういう展開を思いつくんだろう、というのは、『ホテルE』の方がわからないし、いいなと思ってしまうんですよ。さっきからそれを「なんでやろな」と思ってるんですけど。『草上の朝食』の構造は、おーっと思う感じ。『ホテルE』はパルンさんの頭の中でどう展開したのかがよくわからなくて、そこに余韻がある。だからひょっとしてそっちの方が好きなのかなと思ってしまうんですね。
土居
『草上の朝食』だとある程度見える感じがするんですか。
和田
こうやって考えて作っているのかな、とか。『ホテルE』の黒い方の世界の描き方は不可解。
山村
『ホテルE』の方が遊びをいっぱいしていると思いますけどね。
和田
全部が全部、本人でもわかっているわけではなくて、感覚的なものなのかもしれないですけど、その感覚をすごく知りたい。
土居
『ホテルE』の方が感覚的なものがたくさん残ってますよね。
山村
でしょうね。『草上の朝食』でも、僕が好きないくつかのシーンは、胸を開いたら宇宙があってその後に猫を蹴るところだったり(笑)、机にうつむく母親の背後でどんどんと時間が流れていったり、風船で彼女の顔が変わったり……あのへんはちょっと思いつかない。こういうシーンが出来ただけでもすごいなと思った。
エストニア、パルンの自宅のアトリエにて
んなのお気に入りのシーン
中田
みなさんがどのシーンが好きかっていうのをきいてみたいですね。
大山
山村さんがおっしゃっていた時間がバーっと流れていくところはいいですね。
山村
あそこいいよね。いろいろな時間を画面に混在させて。
大山
実写でやったら安っぽくなっちゃいますよね。
山村
アニメーションだから美しいシーンになってる。あれは、『ジュビリー』では参考にしました。あのシーン的なことをやりたくて、『ジュビリー』でスパナを放るのをゆったりにして、鳥はリアルタイムで飛ばせた。
大山
和田くんが嫌だって言っていて、山村さんが好きだって言っていたあの叫び声が僕も好きですね。あれは、自分の眼をストローで刺してしまう人の叫び声なんですかね。外のタクシードライバーの声でないんですよね。
山村
でも同じ声だよね。
大山
タクシードライバーの声っていう設定なんですか。
山村
タクシードライバーがあげた声ではないんじゃない。途中まではタクシードライバーがなにかを轢きそうになって出した声だと思わせといて、最後には彼の悲鳴だったっていう。他のガラスが落ちる音もあわせて。
土居
全部あの人が出したってことになるんですか。
山村
決定できないと思うんだけど、そういう見せ方はしている。
土居
四番目のエピソードには事故のシーンってありましたっけ。
山村
タクシーには乗るけど、事故は起きないよね。そのかわり、3番目のエピソードでベルタが遊園地に行くところで、一つ目の人がいて、やっぱり飲み物を飲もうとして目にささりそうになって、効果音も重なって、予兆になってる。ああいう遊びがすごく面白い。
大山
最初に観たときってすごくふんわりとしか覚えていなくて、二回目観たときに、「ああ、ここで刺さるんだ」って思っていたら刺さらなくて、「あれっ!?」って思ったんですけど。
山村
あそこではただ予感だけを漂わせておいて、あの後で刺さるんだよね。そういうふうに、なんとなくつながりを持たせている。
大山
そういうところを楽しめばいいんですか。
山村
僕はそう思うけどね。しりとりみたいなつながりの巧妙さや面白さ。僕は最初ずっとそういうところを楽しんでいた。何回観ても飽きさせない。
グェン
あの奇妙な物交換の連続も、現実に、取引の仕方としてどれだけ多かったことだろう…
土居
お金なんて紙切れで、意味ないですからね。
グェン
ラストですが、絵になって、電車になって、ピカソのシーンがある。それは半分良かったけど、半分残念だったって気がする。完成した絵で終わることもできたんですよね。でもそうしないで、そこから出なければならないことを描いている。そこはいいなと思う。あの列車は最高にいいなと思うんですけど、でも、その後に腕を潰されたピカソを出して、それが残念(笑)。電車で終わればすごく良かったなと思うんですけど。
山村
最後にあまりに図式的なものに走っちゃったかと。
グェン
象徴性の高い。
山村
ただ、僕は皮肉好きなので、あのラストカットはすごく好きです。腕をローラーで潰されて不自由になりながら、その腕が翼のかたちになって、自由になってもいる。一コマ漫画として最高。ただ、映画的に観れば、あそこで終わった方が美しくなっただろうとは思いますけどね。
土居
あそこで終わっちゃうと、なんだか危ない感じがしちゃいますけどね。手放しで楽しんでいるようで。
山村
あそこからまた自己批判に戻っていくところがパルンらしいとは思う。批判の批判、みたいな。
土居
鳥って白いのと黒いのがいるじゃないですか。黒いのはピカソに襲いかかってきて。最初にピカソが持っている絵は、白い鳥とローラーが描いてあるんですよね。
山村
ラストシーンを象徴してる。だから、自分自身で描いたものと、自分自身の運命が重なってくる。
和田くんの好きなシーンは?
和田
どうしても感覚的になってしまう。「こういうのわかるわ」ってなるのは、最初の作品(”Is the earth round?”)の牛を避けるところだったり……
山村
『ホテルE』がすごいって言ってたのに、結局最初の作品なの(笑)?
土居
『ホテルE』はずっとあんな感じですもんね。
中田
ずっと牛を避けている感じ(笑)。
土居
僕のパルン体験は『ホテルE』で始まって、ほんとに感覚的な「なんだこれ?」感に惹かれたので……
山村
まだ特定のこのシーン、って感じにはならないんだ。
土居
そうですね。全部好き、みたいな。『草上の朝食』は断片的な魅力がたくさん重なっていくところがすごく良いと思いますね。
グェン
やっぱり、コントラストで全体を成立させるってところから、全体としての印象が強くなって、細かいところは新鮮に思えるんですね。私は『草上の朝食』の電車のシーンが本当に良かった。"independent life"もそうですが、真面目なサラリーマンと不真面目な子どものコントラストで成立しているので、一方だけとったら、それほどでもないのかもしれない。一緒にすることによって、倍以上に面白くなる。逆に、このシーンが好きっていうだけで語るのはもったいない。
土居
パルンは細部だけで楽しむっていうのも充分ありな作家ですよね。
山村
一個のアイディアが面白いっていう語り方もできると思うけどね。今日観て思ったのは、『トライアングル』で、夫が出ていくときに餃子みたいなのがポトッ、ポトッと落ちていくシーン。こんな情緒的でありながら笑えるシーンもできるんだなあと思って。
大山
『トライアングル』が観てて一番素直にすごいと思える。『草上の朝食』や『ホテルE』は単純に尺も長いし、自分がこれを作るってなったら何年かかるんだろう、っていう、自分とかけ離れた、ジブリまではいかないまでも、別世界の遠いものすぎるくらい。
山村
ジブリの方が遠いの(笑)?
大山
単純に物量的なことです(笑)。アイディアの面でいっても、これだけ複雑なものは考えるだけで何年もかかってしまう気がするんですけど、『トライアングル』くらいだったら、基本的なストーリーはシンプルだし、それでも細かいところもたくさんあって、素直に短篇作品としてギリギリ何度も観たくなる。
土居
でもギリギリなんですね(笑)。中田さんの好きなシーンは?
中田
私が女だからか、女の人にすごく目がいっちゃいますね。パルンの描く女の人はなぜか説得力があります。パルンの作品って、女の人の性的な部分がブワッと発散されて、またすぐにブワッと戻るってのが多いじゃないですか。『草上の朝食』でも、髪が広がったと思ったら、またすぐに戻ったりだとか。パルンの何かが起こってまた元に戻る、拡がって縮むという動作が好きですね。あと、ちっちゃい男の人が出てくるじゃないですか。でも、ちっちゃい女の人は出てこないじゃないですか。あれはなんなんですか?
山村
でも、『トライアングル』の小さな男の奥さんはちっちゃいんじゃないですか。ちっちゃくは描いてないけれど。
土居
この前のラピュタの久里さんのトークで、「なぜ女の人が大きいんですか」って質問があったんですけど、そういうもんなんだよ、って。
山村
それはわかるね。
土居
作り手が男だからなんですかね。
中田
私は男の人をちっちゃく書こうとは思わないですね。
山村
女性からすると?
中田
はい。
山村
たぶん、ロリコンの人は女の人を小さく描くんじゃないかな。
土居
ああ、ルイス・キャロルがちっちゃくしますよね。『アリス』で。ああでも大きくもするな(一同笑)。どっちだ。
山村
『トライアングル』と『草上の朝食』はどちらもエドゥアルドって名前だね。『草上の朝食』では権力に怯えて小さくなるんだけど。
中田
『草上の朝食』で、ベルタが子供に風船を手渡すと、顔を取り戻すじゃないですか。あれが疑問なんですけど。彼女が初めて与えたからですかね。彼女が子どもになにかをあげたのはあそこが初めてですよね。
土居
そうか。
中田
そういうことはあまり考えなくてもいいんですかね。
土居
いや。あそこまではずっと子どもに引っぱられてたわけだし。なるほどね。
中田
でも、母性とかそういうものを描いているのか、といえば、そうでもないような……
山村
母性を描いてはいないよね。
中田
感覚的なところが素晴らしいです。
山村
全部感覚的だよね。彼女の顔がなくなるのも、アイデンティティを失ったって捉えようと思えば捉えることもできるだろうけど、たぶん意味はないんだよね。
中田
理屈をつけるとどんどんがっかりしていく方向になりませんか。
山村
解釈するよりも、ここがすごいって驚いているだけの方が、楽しみ方としては良いのかも。僕は『ホテルE』で女の人にかぶさって背中に何回か絵を描くところの感覚がすごく面白い。思いつかないんだけど、感覚でわかる。「こうすべきだよな」って。
土居
身体でわかる。
山村
そう。僕はパルンの評論書こうと思って、「奇妙な身振り」ってタイトルを付けようと思ったんだけど、身振りがすごく変なんだけど、行為や身振りがそれそのものであって、そこに言語的な意味を付けるよりも豊かな意味がある。その積み重ね、動きの連鎖で楽しめばいいんじゃないかな。言葉にするのが難しいんだけど、『independent life』もそうだよね。反復のなかで行為の意味が違っていったりすれちがっていったり。単なるルーティーンを描いているだけではないっていう。そこが普通のつまらない作品ではない豊かさ、キャラクターの動き、構図、動作の発想の幅の豊かさを感じる。 5 >
|