山村浩二の『幾多の北』は、本来なら数十年後に公開されるはずだった傑作だ。この輝かしいアニメーション映画は、夢のようなイメージで深夜映画の人気者になったであろう1970年代から80年代にかけて公開されるべきだった。当時はロッキー・ホラー、イレイザーヘッド、ピンク・フラミンゴ、そしてファンタスティック・プラネットのような作品がありました。イレイザーヘッドとファンタスティック・プラネットの間に生まれたものを想像すると、この映画が何であるか、ぼんやりとわかるだろう。…
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»Unseen Films | Dozens of Norths (2021) | スティーブ・コピアン | 2023.03.26 |
…「真冬の国のアリス」とでもいった、映像でしかなし得ない魅力的な世界観がこれもかと繰り広げられていく。…何よりもこういった作品群こそが、見る側の意識を啓蒙させてくれる真の「エンタテインメント」として全国のシネコンで普通に上映されて然るべき時代になってほしいものである。…
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»キネマ旬報 2023年3月上旬号 No.1916 | 戯画日記 185 全てのジャンルは技術的にも密接に絡み合っている | 増當竜也 | 2023.02.20 | 日本 |
...ヒエロニムス・ボスの奇怪な絵画をモノクロに塗り込め、タルコフスキーかタル・ベーラの暗鬱なムードを充満させたような世界
| »「幾多の北」は羽根に羽と根(小原篤のアニマゲ丼) | 文:小原篤 | 2023.01.23 | 日本 |
...山村は、アニメーションが非力であればあるほど、より多くの結果が生まれるという、苦悩の巨大な宇宙的静止フレームを描いているようだ。
...山村は映画の旅において、ボッシュ的な夢の解剖学を我々に提供し、強迫観念的な要素が、1時間強で我々が読むことのできる象徴的な言語を作り出すことができるのだ。
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»FILMEXPLORER | 文:ジュゼッペ・ディ・サルバトーレ | 2022.09.10 | スイス |
...アニメーションを本質的に造形芸術と考える人、従来の意味でのストーリーよりも美学に興味がある人には、『北の何十人』は特にお薦めの提案である。だからこそ、映画と絵画や音楽など他の芸術との境界を曖昧にするような実験的な提案に興味を持つ観客には、何よりも魅力的な作品となるはずです。むしろ、楽曲のように「組曲」として分析したほうが、より理解されるかもしれない。(抜粋)
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»2021年:『幾多の北』| 大人向けアニメーション | レイ・ラグーナ | 2022 | スペイン |
また、日本のスター、山村浩二の初長編映画(といっても1時間の短編)『幾多の北』もスペシャル・メンションを受賞しました。それは、まったくもって魅力的なものだったと言わざるを得ません。まず魅了されたのは、山村の近作とは思えない幻想的で繊細なグラフィックで、シュールで不条理、いや、この映画の動きそのものが不条理であった。…(抜粋)
| ビッグ・カートゥーン・フェスティバルのブログ |
»ザグレブ・フェスティバル 2022 第1部 受賞者 | ディナ・ゴダー | 2022.07 | ロシア |
...石化した、あるいは眠っているような風景に、時に見覚えのある、時にキメラ的な人物が登場し、ミニマルな動き、広大なペン画の上をゆっくりと旅し、無声映画のようなカードだけが言葉を発する、山村浩二の初長編映画である。....(抜粋)
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»BLINK BLANK # 5 | 映画&シリーズ「想像の虚無の中で」 | ジャック・ケルマボン | 2022.04 | フランス
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焦点が定まった詳細な様子とそれにピタリとマッチするリズム。なるほどなるほど、と思ったのは束の間、グッとその様子が俯瞰されると一瞬前に見たはずの出来事が全く分からなくなる。長編アニメーションの多くはしっかりとしたストーリーを軸に、詳細なエピソードが散りばめられている。その詳細が大きなストーリーを濃密なものにしてゆくとするなら、この作品ではまるでその逆である。目を凝らして見た細かなディティールは、どこかで繋がっているようでいながら、そもそもなんの関係もないのかもしれないのだ。ただそれが何だか楽しい。のは、私だけではないはずだ。インパクトのあるビジュアルがどこか不穏でユーモラスな旋律と共に瞬く間に変化し、目を離させない。「長編」の重要な要素であるはずのストーリー性からの逸脱という挑戦が、その新しいあり方を提示している。
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»長編部門審査員特別賞・受賞理由 | 第8回新千歳空港国際アニメーション映画祭 | 2021.11.08 |
...仰天!あまり観たことないというか、いや、全く観たことないような“長編映画”体験がそこにはありました。...
普通は“一見さんお断り映画”とはならないはずの映画なのですが、私はこれを“一見さんお断り映画”に括りたい。
なぜなら、山村浩二監督のこれまでの短編のテンションをそのままに長編化したアニメーション詩となっていて、それを踏まえないまま観るのには体力を要する作品となっているからです。長尺に耐えられるように飲み込みやすくなんて甘いことはしない硬派の極地のような映画でした。(抜粋)
| ネジムラ89 | Note |
»【映画レビュー】最速『幾多の北』の感想!“かつてない”長編映画ってこういう作品のことを言うのかも......! | 2021.11.23
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...本物の実存主義だけでなく、もう一つのメッセージは、資本主義下での存在の疎外感であるように思われる。特に、管理者に会ったことがないにもかかわらず、人々が絶えず仕事をしているという部分だ。私たちが地獄を歩いているのなら、天国もあるはず。あなたの代わりに誰かが人生を楽しんでいるのだから。しかし、通常の意味での解放は訪れず、山村は毎回、物語よりも映像を選ぶ。その結果、これまでに見た中で最も大胆なアニメーション作品のひとつとなり、ピクサー、ハーツフェルド、宮崎などと並ぶにふさわしいアニメーションの世界を旅することができた。...(抜粋)
| Redmond Bacon | DMovies |
»Dozens of Norths (Ikuta no Kita) | 2021.12.22 |
...ここ "と "あそこ "が想像力によってつながり、暗く不穏なイメージが、しばしば繰り返される。人間とは似ても似つかない「人」が、人間と同じような活動に没頭し、一見無意味な作業で社会に貢献し、ある種の論理に従いながら、他の想像上の地球にとっては謎のままなのだ。...(抜粋)
| Marina D. Richter | Asian Movie Pules |
»Film Review: Dozens of Norths (2021) by Koji Yamamura | 2021.12.22
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...対して『幾多の北』は、あくまで「絵」としての空間を保持する。いや、それだと「絵画的」だとか、イラストレーションが動いたようなだとか、そういった風に理解されてしまうのかもしれないが、そうではない。「アニメーションが絵に描かれたものであるかぎりにおいての必須条件としての絵」だからこそつくり出せる空間を活用するのだ。長編アニメーション作品を作るのに、僕たちが暮らすボリュームのある空間を模倣する必要はないのだ、と高らかに宣言するかのごとく。(抜粋)
| 土居伸彰 | メディア芸術カレントコンテンツ |
»コロナ禍に鈍く光を放つ、実験場としての長編アニメーション | 2021.10.25 |
月刊誌『文學界』表紙として連載したイラストを、自らの手でアニメーション映画化。イラストは「長編アニメーションを構想しその一場面を描く」というコンセプトで描かれていたそうで、アニメーション化は必然だった。本作は語り手の羽根ペンを、2人の小人が抱えて歩き出すところから始まる。彼らは語り手に代わって無意識の領域を進む本作の案内人。本作では無意識の領域が、語り手の内面ではなく、「断片」を通じて世界のあり方を示した場所になっている。描かれる「断片」も最初は「風刺」とも思えるほど具体的だが次第に抽象度を増していく。そして一番深いところで世界は「語り手」とも結びついていることが語られる。寂寥感や不穏な空気を感じさせる画面だが、同時にユーモラスでどこか懐かしい雰囲気も漂う。主題のスケールの大きさと、このような表現の厚みは長編だからこそ到達できたものだ。
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»アニメーション部門 優秀賞・贈賞理由 | 第25回文化庁メディア芸術祭 | 藤津亮太 | 2022.03 |